まるで――そう、まるで水の中に漂っているような。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 どこが天か、どこが地か、わからない。
 怖い、怖い、怖い。
 ぎゅっと、体を抱きしめる。
 ――体を?
 どこにそんなものがあるのだろう。
 抱きしめた体は存在せず、また腕も存在しない。
 では、私は、『なに』で『なに』を抱きしめたんだろう。
 決まっている。
 『腕』で『体』を抱きしめたんだ。
 ――おかしいなぁ。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 漂うように『体』が揺れる。
 祐一さん、助けてくれないかな。
 私の思い人。祐一さん。
 ある夜、ふっと姿を現して、私のココロを奪っていった。
 一目惚れ。まさか自分がそんなことになるなんて。
 あの夜も、私を助けてくれると言った。
 ――助けて、ここから出して。
「さて、目は覚めましたかな、姫?」
 ――私の愛しい人。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鬼月幻想奇譚
    〜 正しい魔物の屠り方 〜

八ノ門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 泣きじゃくる栞を、祐一は抱きしめる。
 祐一さん、ありがとう、祐一さん、ありがとう。
 日も高いうちに女人の寝所に忍び込むのもどうかと考えたが、そろそろ頃合いのはずだった。
 栞のこの様子を見る限り、鬼は消え、体力も回復している。
 もう倒れることもないし、死におびえる必要もない。
 祐一はそう考えた。
「どこか痛いところは?」
 ふるふる。
「気持ち悪いとかは?」
 ふるふる。
「そうかそうか。よかったな」
 こくこく。
「ゆ、祐一さん……祐一さん……」
 怖かった、すごく怖かった。
 ひとりぼっちで、くらいくらい水の中。
 誰もいない。私もいない。
 怖かった。
 喉を震わせてまくし立てる栞の頭を優しく撫で、落ち着かせる。
「もう心配ない。怖くはない。俺が来たからな」
 栞はうんうんと頷き、祐一の背中に手を回して抱きつく。
「会いたかった、ずっとずっと。夢の中で何度も願いました」
 ぐりぐりと胸に顔を押しつける。
「目を開けたとき祐一さんがいて、嬉しかった。本当に……」
 祐一はぽりぽりと鼻をかく。
「そうか? 俺は起こしに来ただけなんだけどな」
「だって……長かった。一ヶ月にも、一年にも感じました」
 肩をすくめ、言う。
「実際寝てたのは十日だけどな。回復した頃だと思ったから」
「そうですか。たったの十日」
 栞は祐一の胸に顔を埋め呟く。
「私……治ったんですよね」
「ああ」
「もう、苦しい思いをしなくていいんですよね」
「ああ」
「外で、遊べるんですよね」
「ああ」
「お姉ちゃんと……お姉ちゃんに迷惑かけなくて済むんですよね」
「ああ」
「……祐一さん。ありがとうございます」
「いや。頑張ったのは、栞だからな」
 祐一は抱きつく栞をなだめながら引きはがして、立ち上がる。
「さて、お姉さんに怒鳴られる前に退散しますか」
 一歩引き、栞の前に跪く。
「では、ごきげんよう、姫。また会う日まで」
 深く頭を垂れる。
「祐一さん……?」
 栞が怪訝な表情をする。
 祐一が今までそんな言い回しを使ったことはなかった。
「もう会わないなんて……言いませんよね……?」
 捨てられる子犬のように、栞は声を絞り出す。
「俺はもうここには来ない」
 そんな。栞は呟き、目尻に涙を浮かべる。
「が、町には居る。会いたきゃ勝手に来い」
 立ち上がり跳躍。欄干に止まる。
「ほ、本当ですか……?」
「俺が今までに嘘をついたことはあったか?」
 我ながらなんという科白だ。祐一は思う。
「いえ……でも、でもっ」
「なら信じろ」
「祐一さんっ」
 まだ何か言いたそうな栞に背を向け、祐一は再び跳躍し、庭を越え、塀を飛び越える。
 辺りに誰もいないことを確認して、歩き出す。
 祐一は美坂家襲撃の張本人である。
 ――あまりその近くをうろうろするのは、やっぱり危ないよな。
 祐一はさっさと自分の家へと戻っていった。
 
 
 床の上にごろりと転がりながら祐一は考える。
 町では鬼狩りの噂で持ちきりだ。
 しばらく身を隠した方がいいかもしれないな。
「全鬼、護鬼、いるか?」
 かた、と勝手口の戸が開く。
「ここに」
「わたしも」
 ふたりとも小袖に身を包み、腕まくりをしている。
 全鬼は長い髪を下げ髪にしていて、いつもの凛とした雰囲気は柔らかいものになっている。
 護鬼はというと、肩口までの髪を頭のてっぺんと耳の後ろで縛っている。
「ふたりともそんなとこでなにしてたんだ?」
「たまった洗濯物を干していました」
「……マスターは、無精」
 祐一は言葉に詰まる。
「……ありがとよ」
「務めです」
「わたしは好きでやってる」
 全鬼が眉をぴくりと動かす。
「……私も好きでやっている、御主人」
 言い直す全鬼。微笑ましい。
 祐一がこのふたりと出会ったときは、感情の存在も感じられない程だった。
 少しずつだが、成長しているんだろう。
「聞け。鬼狩りが始まる、しばらくここを離れるぞ」
「承知」
「理解した」
「じゃ、早速だけど、出発だ。おまえ達はどうする?」
 ふたりに問いかける。
「……私は影に」
「わたしも影に」
 それを聞いて少し安堵する。
 このふたりは色々な意味で人目を引いてしまう。
「そうか。それじゃ……」
 祐一は印を組み呪を唱える。
 全鬼と護鬼の足下に影が渦巻き、す、と沈んでいく。
 そしてその影は祐一の影と交わる。
「では、逃げよう」
 祐一はものみの丘を目指し、足を上げた。
 
 
 柔らかい草を踏みつけながら、歩を進める。
 ものみの丘は町を一望出来る。
 しかし鬼が出るという噂のため、人は滅多に来ない。
 さぁ、と風が吹き、草花が揺れる。
「……で、なんの用ですか?」
 祐一が振り向くと、女はびくりと身をすくめる。
 見たことのある女だ。伏鬼士と一緒にいた呪士の女。
「え、え? あ、あはは〜、なんのことでしょう。佐祐理は散歩に来ただけですよ〜」
 そうか、佐祐理って言うのか。祐一は記憶する。
「奇遇だな。俺もだ」
 唇の端を吊り上げる。
 佐祐理は、はぇ〜、と呟く。
 これが鞍馬の鬼。太陽の下でちゃんと見るのは初めてだ。
 まさかこんな子供だったなんて。
「あの……鞍馬の鬼、さんですよね」
「さて、どうだったかな」
「ふぇ……いじわるしないでちゃんと答えてくださいよ〜」
 ふにゃ、と顔が歪む。今にも泣きそうだ。
「肯定だ、と言えばどうなるんだ?」
「えっと……」
 佐祐理は懐から数枚の符を取り出す。
「あなたのせいで、舞が最近変なんです。ですから――」
 すぅ、と右腕を水平に伸ばす。
「排除します」
 ついでに報奨金もがっぽりです。とまでは言わない佐祐理だった。
「……覚えてないのか?」
「なにをです」
 油断無く足を運びながら、佐祐理は祐一の声に耳を傾ける。
「邪魔すれば殺すと言ったはずだが」
「佐祐理はこう見えても結構頑丈なんです。そう簡単に死にません」
 肩をすくめ、ため息をつく。
「いいですよ、相手をしてあげましょう」
 祐一は印を組む。
「ひるがえりて来たれ、全鬼。ふりかえりて、護鬼」
 影は別れ、そして立ち上がる。
「呼び出したるは、我」
 そして現れるふたりの鬼。
「ひ、ひきょ〜ですよっ、佐祐理はひとりなのにっ」
 佐祐理は指差した腕をぶんぶんと振り、抗議の声をあげる。
「心配しなさんな。ちゃんと俺が相手しますから」
 祐一が全鬼に目配せをする。
 全鬼はどこから取り出したのか、一振りの飾太刀を祐一に差し出す。
「手は出すなよ、全鬼、護鬼」
「……承知」「理解した」
 飾太刀を受け取り、佐祐理に向かう。
「御主人」
「ん?」
「……御武運を」
 全鬼も言うようになった。祐一は思う。
 ひらひらと手を振り、それに答える。
「さ、はじめようか」
 祐一が腰に飾太刀を吊しながら言う。
 佐祐理はこほんとひとつ咳払いをし、口上を述べる。
「……四天がひとり、倉田佐祐理。お相手つかまつる」
「四天……かよ。それはちょっと」
 聞いてないぞ。祐一は背中に冷たい汗を感じる。
「参る!」
 
 
 
 
 


あとがき

vsさゆりん
ふぁいっ

頭を垂れる<こうべをたれる>
 あたま、かしら、こうべ 普通に使っていましたが漢字にすると区別つきませんね
怪訝<けげん>

栞と香里と祐一の関係はこれでは終わりません。
こうご期待、じゃないかもしれませんが暫しお待ちを。
祐一と香里の再戦を希望する方結構いましたし。

さて、次回は祐一と佐祐理の戦闘ですが……
短いです、かなり。
実質戦ってる時間は五分にも満たないでしょう。
さくっと読めてしまいます(汗
バトルって難しいですね〜
しかも得意とする分野の違うふたり。
しんど。
戦わせてみたい組み合わせは引き続きメールにて。
にしてもため息多いSSですね。
なにかと気苦労が多いんでしょうか。

 

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