ゆきほたる



Kanon SS



ゆきほたる





日中の暑すぎる気温が下がり、空と地の境が朱に染まり始める時刻。

そんな夏の夕暮れに佇む、ここはとある町にある水瀬家。

「祐一〜、早く行こうよ〜」

その水瀬家の玄関から名雪の俺を呼ぶ声が聞こえてくる。

俺は名雪の急かす声に

「ああ、今行くよ」

そう答えながら階段を下りていく。

テクテクと、何時も通りに歩きながら。

階段を下りきった俺は廊下の途中、リビングの扉を開けて秋子さんに挨拶をする。

「それじゃあ秋子さん、名雪と少し出掛けてきます。

それからこれ、ありがとうございました」

俺の言葉にソファに腰掛けていた秋子さんは、優しく微笑を浮かべるとただ一言、

「楽しんできて下さいね」

と返事を返してくれた。

俺は秋子さんに「何かお土産買ってきますから」と声をかけ、

先ほどから玄関で俺の名を呼び続ける名雪の下に歩いていく。

「もう、遅いよ祐一」

腰に手を当て非難の声を視線と共に浴びせてくる名雪。

「そんなに急がなくても大丈夫だろ?」

名雪の言葉を軽くかわしながら俺は靴に、

ではなく、

下駄に、綺麗な木目に黒の花緒が映える下駄に足を通した。

「それはそうだけど…」

俺の言葉に納得しつつも、まだ何か言いたげに身をよじる名雪。

その名雪の動きに合わせ名雪の足元からカランと乾いた音が響いた。

そう、名雪も俺と同じく靴ではなく下駄に足を通しているのだ。

「だって、凄く楽しみなんだもん…」

そう言って小さな子供の様に、立ち上がった俺の着ている浴衣の袖を引っ張る名雪。

そう、浴衣の裾を。

拗ねた表情で袖を引く名雪も、同じく浴衣にその身を包んでいる。

さて、もうお分かりだろうか。

夏。

夕暮れ。

浴衣に下駄。

とこの姿で出かけると言えばあれしかない。

そう、夏祭り。

今日はこの町の夏祭りなのである。

「わかったわかった」

わくわく、そわそわ、とした名雪の言葉に苦笑いを浮かべながら、

右手を名雪に引っ張られている俺は左手で玄関の扉を開ける。

そして俺は振り返り名雪に声をかけた。

「よし、行くか、名雪」

そして俺は一歩踏み出す。

「うん!!」

と言う言葉と共に、未だ袖を掴んだままで付いてくる名雪と共に。



カラン…コロン…

夕暮れに染まる静かな街路に二人の下駄の音だけが響く。

その夕日に赤く染まった道には俺と名雪の影が尾を引くように長く長く伸びている。

「浴衣、似合ってるね」

横を歩く名雪が嬉しそうな表情で俺の顔を覗き込んでくる。

「ん、そうか?」

袖を掴むようにしてピンッと引っ張ってみる。

「うん、とてもよく似合ってるよ」

そう言って嬉しそうに頷く。

「ありがとな。

名雪もその浴衣、良く似合ってるぞ」

そう言って俺は横に並ぶ名雪を見下ろす。

名雪の着ている浴衣、淡い水色の生地に藍色の帯が良く映えており、

そして裾の部分には青い朝顔が一輪、正しく華を添えている。

その青色で統一された浴衣は確かに名雪に良く似合っていた。

「本当?…嬉しいな」

そう言ってはにかみつつも喜びの笑顔を浮かべる名雪。

そして、二人の間に沈黙が訪れた。

しかしそれは決して気まずいと言う訳ではい。

言葉など無くてもただ隣に相手が居るというだけで良いという安心感。

そんな心地よい沈黙の中を俺達は寄り添うように歩いていく。

カラン、コロン、と下駄の足音だけを響かせて。

「この浴衣…」

不意に、名雪が口を開いた。

「昔、お父さんとお母さんが着てたって言ってた。

お父さんとお母さんも良く似合ってたって…。

だから、私もこの浴衣が似合ってるって、

祐一に似合ってるって言ってもらえて、凄く嬉しいな……」

そう言って頬を赤く染めて俺を見上げる名雪。

昔、この浴衣を着ていた秋子さんと親父さん。

この浴衣の良く似合っていた二人。

そして、その浴衣を着ている今の俺達。

この浴衣の良く似合う俺達。

お似合いの二人だった秋子さん達。

そして、お似合いの……。

「そうだな…。俺も、嬉しいよ……」

そう呟く俺に名雪が

「うん……」と頷き返す。

そしてまた俺達は心地よい沈黙の中を、

名雪が掴む先を浴衣の袖から俺の手に代えて、

カラン、コロンと祭囃子の聞こえてくる神社へと歩いていくのだった。



「祐一、祐一!!ひよこだよ!!」

「祐一、祐一!!綿飴だよ!!」

「祐一、祐一!!いちご飴だよ!!」

可愛いよ〜、美味しそうだよ〜と、

小さな子供のように次々と屋台に目を輝かせる名雪に苦笑いを浮かべながら、

俺達は賑やかな出店と溢れんばかりの人の立ち並ぶ神社の境内を歩いていた。

そして既に何軒目になるか解らない出店に名雪が顔を覗き込ませたとき、

「…あっ……」

と名雪が何かを発見した。

名雪が覗き込んだ出店、それは射的屋だった。

幅3〜4cmの紙に吊るされた景品を、

その紙をコルク栓で射抜き落とす事が出来れば手に入れられるというタイプである。

俺は景品を見回し名雪が心引かれたであろう物を探す。

そして、直ぐに探し当てる事が出来た。

それはハンカチ。

コミカルなかえるの絵がプリントされたハンカチが名雪の心を奪った景品だった。

「……あれが欲しいのか?」

ハンカチを指差し名雪に聞いてみる。

「…………うん」

名雪は随分と悩んだ後に恥ずかしそうに返事をした。

「………」

俺はそのハンカチの景品を見詰める。

既に何人かが挑戦したのか、ハンカチを吊っている紙は所々破れており、

もう一押しで取れそうな雰囲気だった。

「よし、俺が取ってやるよ」

俺は腕を捲くると名雪にそう声をかける。

そして、

「えっ、良いの?」

と困惑した表情を浮かべる名雪に

「任せとけって」

と返事を返し店の親父にお金を渡す。

そして、「兄ちゃん、彼女に良いとこ見せてやんなよ!!」と言う威勢の良い言葉と

玉となるコルク栓を親父から受け取り、俺はハンカチに一番近い所にある銃を手に取った。

俺は銃を構え狙いを定める。

狙うは景品を吊るす紙の両端。

一発、

二発、

コルク栓は中々思う所に飛ばず決定的な一撃を与える事が出来ない。

そして、最後の一発。

俺は真剣な面持ちでそれを銃身に詰め込む。

ハンカチの方も何発か掠り当たりがあったので、もう一発当たれば落ちそうな雰囲気だ。

俺は限界まで身を乗り出し景品に的をつける。

そして、心地よい緊張感の中、震える指に力を込めて引き金を…

引いた。



「〜〜〜〜〜♪」

上機嫌で俺の手を引き歩く名雪。

その手には俺が見事に打ち落とした景品のハンカチが握られている。

「ありがとう、祐一〜」

俺を振り返り、もう何度目になるか解らないお礼を言う名雪。

「ああ……」

俺は名雪の言葉に苦笑いと共に返事を返す。

ハンカチ一つで之ほどまで喜んで貰えれば俺も取った甲斐があると言うものだ。

「ん、そろそろ花火の上がる時間だな…」

俺は腕時計の類は身につけないので正確な時間は解らないが

多分もうそろそろの筈だ。

「で、名雪。一体俺を何処に連れて行く気何だ?」

その言葉の通り、俺は「花火を見るのにとても良い場所があるんだよ」と言う名雪に手を引かれて

祭りの喧騒から遠ざかり人気の無い道を歩いている。

しかし名雪は、

「もう直ぐだよ〜」

と上機嫌で俺の手を引き人気の無い道をどんどんと歩いていく。

辺りには人気も人家も無かったが、遠くに見える祭りの明かりと、

そして夜空に輝く大きな月の明かりで歩くのに不自由は感じなかった。

そしてそれからもう少し歩いた後、

「お待たせ祐一、ここが私のお勧めの場所だよ」

と、その場所に俺達は到着した。

其処は池の畔のちょっとした広場だった。

湖面に浮かぶ歪みの無い真円の月が、その場所の静けさを象徴している。

確かに其処は人気も少なく落ち着いて花火を見られる場所だった。

「ふ〜ん…。確かにここなら落ち着いて花火を見られるな」

そう言いながら辺りを見回す俺に、

「うん〜。

でも、ここのお勧めはそれだけじゃないんだよ〜」

と、とても嬉しそうな笑顔で笑いかけてくる名雪。

まるで、取って置きの秘密を打ち明ける子供の様に。

「…?

如何言うこと……」

如何言う事だ?と問いかけようとした俺の目の前に、それはふわりと現れた。

神秘的な、儚い光。

その光が俺と名雪の間をふわりと漂った。

「………」

俺は無言でその光の行き先を追う。

その光は、点いたり、消えたり、それを繰り返しながら池の方へと漂っていく。

そしてその直後、俺はその光景に目を奪われた。

池の湖面に浮かぶ無数の光。

淡い瞬きを繰り返す無数の光の粒が、湖面の上で輪舞を踊るように漂っていた。

現れては消え、消えては現れる、

神秘的な光の瞬き。

まるで、泡沫の夢のように。

手にすると消えてしまう、儚い雪のように。

「祐一」

幻想的な光景に引き込まれた俺の意識を名雪の声が呼び戻す。

「……はい」

名雪が何かを包むように閉じた手を差し出し、

その手をそっと開いた。

開かれた手の中には瞬く小さな一点の光。

その光の粒が名雪の手を離れ、漆黒の闇夜へと舞い上がっていく。

池に舞う、無数の光の瞬きの中へと溶け込んでいく。

「蛍、綺麗だよね…」

その蛍の光の軌跡を目で追いながら名雪が呟く。

その言葉を合図にしたかのように、

ドンッ!!ドドンッ!!

と遠くの夜空に光の輪が華開いた。

「わ、祐一、花火だよ」

その音と光に名雪が夜空を見上げる。

ドンッ!!ドドンッ!!

次々と夜空に鮮やかな華を開く花火達。

「たまや〜。だね…」

おどけるようにそう言って俺に笑いかける名雪。

でも、俺はその名雪のどの言葉にも、返事を返す事が出来なかった。

何故なら、俺の目の前に居る名雪が、

月の光を浴びる名雪が、

池に浮かぶ月の光のきらめきを浴びる名雪が、

舞い踊る蛍の光の中に浮かび上がる名雪の姿が、

夜空に華咲く花火の光に彩られる名雪の姿が、

その全ての光の幻想よりも、

その中で微笑む名雪の姿が美しくて、

俺はただ名雪の姿を見詰めることしか出来なかった。

この気持ちを言葉にすることすら無粋に思えて、俺はただ見詰め続ける事しか出来なかった。

俺は雪のように舞い散る蛍の中で、

月の光と花火の光を浴び戯れるように身を翻す名雪を見詰め続けながら、

その名雪に少し毒づいた。

なあ、名雪。

何も其処まで俺に思い知らせなくても良いじゃないか。

俺が之ほどまでに、名雪に心奪われていると言う事を…。

名雪の前では決して口に出来ないような言葉を心の中で呟きながら、

俺は名雪の姿を何時までも見詰め続けた。

俺の気持ちを知ってか知らずか、光の彩の中で微笑む名雪の姿を。











あとがき

少々季節外れではありますが、
とりあえず今回は名雪で。
浴衣、花火、蛍、とそれらしく攻めてみました。
ところで、蛍ってどの辺りまで生息しているのでしょう?
それが一番の心配だったり…。