しんしんと雪が積もる。
 わたしのこころに、少しずつ、少しずつ。
 
 
 
 
 
 いってらっしゃい、と。
 娘と、その「恋人」を見送る。もう何度目の朝だろうか。数える
ことすら苦痛なほど、ずいぶんと昔からのような気もする。
 名雪と祐一さんは付き合ってはいないが、はたから見れば仲睦ま
じい恋人にしか映らない。名雪はずっと祐一さんが好きだった。祐
一さんもそれは薄々と気付いているのだろう、名雪との距離が日に
日に縮んでいる。
 きりきりと胸を締め付けるような痛みがわたしをさいなむ。
 不毛だ。実るはずのない果実にかまける理由は、これっぽっちも
ありはしない。わたしと祐一さんは……。
 ――やめよう。考えるだけで苦しくなる。
「さ、食器を片付けましょう」
 心にまとわりつくどろどろとした感情を振り払うように家事に専
念する。が、わたしがなにかをするたびに大きな壁にぶち当たって
しまう。
 食器を洗おうとすれば、祐一さんの使ったコップの口を付けたで
あろう部分を20分もの間凝視しながら葛藤してみたり。洗濯物を
干そうとすれば、祐一さんの下着を手にとってひとつくらい行方不
明でもばれないかなとか思ってみたり。ふとんを干そうとすれば、
祐一さんのにおいに陶酔しながら1時間もしがみついていたり。
 ある意味で天国のようなものなのだが、しかし地獄のような環境
でもある。
 祐一さんの残り香では済まず、いつかこの想いが爆発しそうで怖
い。いまのところは我慢できる。けれどそれがいつまで続くか……。
 まぁ、祐一さんが近くにいるだけでどきどきと鼓動が早まってし
まい、顔が赤くならないようにするだけで精一杯で、なにかをしよ
うなどとは全く考えられないのだけど。どちらかというと、真っ白
になったあたまでとんでもないことを口走らないかが心配だ。
「……ふう。一通りは終わりましたね」
 今日は仕事もお休みで、特にすることもない。とりあえず軽く昼
食をとって、リビングでぼーっと無為な時間を過ごす。テレビはよ
くわからないバラエティー番組を垂れ流し、コーヒーを飲みながら
テーブルの上に置いてあった雑誌をぱらぱらとめくる。
 ――暇だ。世の専業主婦の方々はどうやってこの時間を潰してい
るのだろう。それは一種の才能じゃないかと思う。
 わたしは暇で暇で……することもないので、祐一さんのことを想
いながらお昼寝をすることに落ち着いた。この厳冬のような現実で
許されない想いだというのなら、せめて夢の中だけでも……などと
いうことでなく、単に安眠するにはそれが一番だと経験上分かって
いるからだ。
 暖房の設定温度を少し下げ、テレビの電源を落とす。低くうなる
ような暖房の運転音と、テレビから聞こえていた薄いノイズが、す
うっと、切り取られたように消えていく。
 リビングから見える外の風景に視線を移すと、細やかな純白の結
晶がゆらゆらと舞い踊っていた。この時期には珍しくもない現象だ
が、わたしは誘われるように窓際へ歩み寄る。
「雪……」
 冬に舞い降り、大地に身を重ねて積もり、やがては溶けていく。
わたしの祐一さんへの想いも、春が来ると共に消えてしまえば……
胸を締め付けられる苦しみに眠れぬ夜を過ごすこともないだろう。
 鍵を外し、窓を開ける。
 ひゅう、と肌を刺すような冷たい空気が流れ込んでくる。暖房で
火照ったからだにはちょうどいい。
 ガラス一枚隔てたそこは、雪が音を吸い込んでいるかのように静
まりかえっていた。
 車の通る音もしない。人の話す声も聞こえない。
 まるで世界に取り残されたような不安感。わたしの他には、もし
かしたらだれもいないのではないだろうか――そんないやな想像が
脳裏にかすめる。
 ふる、と肩が震えた。
「冷えますね……」
 不安を遮るように窓を閉める。
 そんなことがあるはずはない。この世界には数え切れないほどの
ひとにあふれている。そんな非現実的なことに不安を感じてどうす
るというのだ。
 でも、たったひとりの人間がわたしの元から消えていくなら、そ
れはひどく簡単なこと。「さようなら」の一言で、それは現実にな
ってしまう。
 ……そう、祐一さんは、いずれわたしの元を離れる。
 二度と会えない、ということではない。でも、そうかもしれない。
 祐一さんへの想いは日に日に大きくなるばかりで、しぼむ気配は
全くない。祐一さんが隣にいるというだけで嬉しくて仕方ないのだ。
 たとえば、もし、祐一さんが――
「……やめましょう。こんな無意味なこと」
 わたしはソファに身を沈める。
 ――寒い。
 痺れそうなほどの寒さがわたしを襲う。
「寒い……」
 暖房の設定温度を上げる。それでも効果はなかった。肩を抱き、
からだを縮める。いくら室温を上げても、わたしを暖めてくれるこ
とはない。
 凍えているのは、わたしのこころ。
「寒い……」
 頬を熱い雫が伝う。
 離れたくない……離したくない。でも、それは赦されない。わた
しと祐一さんは、血の繋がった近しい者。だからわたしの想いは決
して……知られてはいけない。
 だというのに……とめどなく涙があふれる。
 触れてはいけない。
 求めてはいけない。
 ――そんなこと、わかってる。
 それでもわたしのこころは祐一さんを求めている。尽きることの
ない愛情を渇望している。
 叶うことのない想い。叶えようとしてはいけない想い。
 どうしようもなく苦しく、いたい。
 なぜ……わたしは祐一さんを好きになってしまったのだろう。
「祐一さん……」
 かたん、と後ろから物音がした。振り返ると、いるはずのないひ
とが、驚いたような表情で私を見ていた。
 ――祐一さんは、まだ学校にいる時間だ。
「えと……」と言いよどむ。「気配とか、読めたりしたますか?」
「しませんっ」
 思わず即答してしまう。
 まったく、いままであんなに落ち込んでいたのに、祐一さんが現
れたとたんこれだ。
「そ、そうですよね。あ、俺ちょっと気分悪かったんで早退してき
たんですけど……って秋子さん、目、赤いですよ?」
 はっと祐一さんから顔をそらす。見られてしまった。もしかした
ら、泣いていたのに気付いただろうか。
 ごしごしと袖口で目元をこすり、よし、と気分を入れ替える。
「ちょっと眠ってましたから。それより、体調はいいんですか?」
「ええ、帰ってくるうちによくなってきましたから。なんか、ずる
したみたいですね」くすくすと笑う。「秋子さんは、仕事なかった
んですか?」
 いまだけでも、この幸せに包まれていたい。
 遠くない未来にこの幸せが消えたとしても、それは仕方のないこ
とだろう。わたしはそれをとどめることはできない。
 だけど。
 永遠に、そのときが来なければいいのに。
 そんなふうに思っている。
 
 
 
 
 
 
 しんしんと雪が積もる。
 溶けることのないわたしのこころに、少しずつ、少しずつ。




 
 
 
 

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初出:2003/02/18 灰色楽園
都々々(みやこ みと)