にゃあ、と。
 わたしが窓際に座ってひなたぼっこをしていた時、ガラス越しに
一匹の黒猫が鳴いた。つやつやとした黒い毛並みに、ほっそりとし
たからだ。飼い猫だろうか、少し古くなった首輪を付けている。
 しばらくわたしを睨むように立ち止まり、元々飽きっぽい性格な
のか、つんとそっぽを向いてどこかへと駆けていった。
 ここに名雪がいたら大変ね、とわたしはその様子を思い浮かべて
苦笑する。あの子は猫が好きなくせにアレルギーで、満足にかわい
がることも出来ない。目と鼻をぐしゃぐしゃにしつつも猫に吸い寄
せられていく姿は一種独特の雰囲気がある。
「秋子さん、これはどこに置けばいいんですか?」
 キッチンから祐一さんの声がした。
「あ、それは食器棚の引き戸です。同じものがありますから、重ね
て置いてください」
 はーい、と軽い返事が返ってくる。
 日曜日の午後。祐一さんは昼食の片づけを引き受けると言い出し、
わたしはこうして彼がぱたぱたと動き回る姿を眺めているというわ
けだ。名雪は友達の家に遊びに行くとかで、いまこの家にいるのは
わたしと祐一さんだけ。
 たまには、こういうのもいいかもしれない。
 手際よく食器を片付けていく祐一さんの後ろ姿は、どこか年にそ
ぐわない愛らしさがあった。それは祐一さんの掛けているエプロン
にも原因があるかもしれない。いつもわたしが使っているそれは、
祐一さんの雰囲気をさらにほわほわとしたものに変えていて、実に
微笑ましい。
 視線を外に移し、わたしはあたたかな日差しに目を細める。
 こんなに幸せでいいのだろうか。
 少し、不安になる。永遠にいまが続かない限り、いつかはこの幸
せが失われる日が来るだろう。そんなときが来なければいいのに、
と思う。
 祐一さんは姉の息子であり、魅力的な男性であり、わたしには手
の届かない存在。ただ遠くから見守るのが、わたしの役目。
 そう言い聞かせても、しかしだからといってこの想いが消えるわ
けでもない。むしろ日を追うごとに強まるばかりだ。日がな一日祐
一さんのことを思い浮かべて過ごすことも多い。
 でも結局は甥と叔母という関係でしかない。それはどうしようも
ないことだ。いまさらわたしがなにをしたところで、それが変わる
はずもない。
 灼かれるようなにがい想いに胸が締め付けられる。思い焦がれる
ことが、これほどまでに苦しいものだったなんて――初めて知った。
「はい、秋子さん。コーヒーどうぞ」
 どくん、と鼓動が一瞬早まる。振り返ると、祐一さんがカップを
わたしに差し出して微笑んでいた。胸を締め付ける苦しみがいっそ
うに増す。この痛みに、わたしは耐えることが出来るのだろうか。
「ありがとうございます」
 なんとかそれだけ言うことができた。祐一さんはそんなわたしに
気付かず、30センチも離れていないところに腰を下ろす。
 静かな家に、穏やかな時間。
 祐一さんは時折あくびをかみ殺し、コーヒーをすすっては流れて
いく雲を眺めている。
 こころがいたい。散り散りになりそうなほどの苦しみを、わたし
はまぶたをぎゅっと閉じて耐える。
 幸せ、わたしはそう感じている。たとえ身を灼かれそうな想いに
こころをさらしていたとしても、たしかにわたしは幸せを感じてい
た。しかしだからといってこの痛みはあんまりだ。こころがばらば
らになりそうに、いたい。
「……秋子さん? 気分、わるくなったんですか?」
 はっと目を開けると、視界一杯に祐一さんの顔が映し出される。
「あ、いえ……ちょっと、疲れてたみたいですね」
 わたしがそう言っても祐一さんの表情は硬い。
「顔色、悪いです。倒れる前にちゃんと休んでくださいよ」
 祐一さんはそう言いながら、わたしの背中をさする。
 あたたかい。
 こころが癒されていくように、じんわりと祐一さんのぬくもりが
わたしを包み込む。
「大丈夫ですか?」
「ええ……、でも、もう少しだけ……」
 どれくらいそうしていたのか、カップの中のコーヒーはすっかり
冷めてしまっていた。先ほどまで感じていた苦しみもいつの間にか
収まっていて、その代わりに、とてもあたたかいなにかがわたしを
満たしていた。
 なんだ、わかってみればなんのことはない。ただ単に、わたしは
触れて欲しかっただけなのだ。
 自分から求めることはできない。けれど触れて欲しい。そんな背
反する想いに軋んで悲鳴を上げているこころが、わたしに痛みを与
えていたわけだ。
 すりすりと服のこすれる音がする。
 このまま……いつまでもこのままの時が続けばいいのに。
 とくん、とくん、と鼓動を打つたびにぴりぴりと甘い痛みが生ま
れてくる。
 ――きもちいい。澄んだ川の流れに身を任せているようだ。
 水は形を変え、わたしの全てをくまなく包み込む。
「そうだ、祐一さん。今度の休みにみんなで山に行きましょう」
 思いつきで言ったにしては、なかなかに心引かれる提案だった。
「山、ですか」わたしの背中をさすりながら答える。「いいですね」
「それで、川のそばでお昼を食べるんです」
「なるほど」
 それからしばらく祐一さんとピクニックの計画を話し合い、わた
しはその間ずっと祐一さんに背中を向けていた。
「祐一さん」
「なんですか?」
 触れてはくれないかもしれない。けれど、声を掛ければちゃんと
振り向いてくれる。不思議そうな祐一さんの顔に、わたしの頬がゆ
るむ。
「……ふふっ。なんでもありません。呼んでみただけです」
 川の流れはなにもひとつじゃない。
 だからいまは――このままでいい。
 
 
 
 

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初出:2003/02/03 灰色楽園
都々々(みやこ みと)