夏も本番を迎え、滲んでくる汗を抑えられなくなる時期だ。
 祐一さんたちは夏休みということもあり、それぞれ好きに時間を
過ごしている。真琴は、確か天野さんという方のお宅にお泊まりで、
名雪は友人数人とプールへ遊びに出かけた。
 一緒に行くとばかり思っていたのか、名雪はついさっきまで「ゆ
ういちも一緒に行こうよ〜」とごねてごねて、祐一さんも困り顔。
名雪の連れていた彼女たちも、祐一さんに少なからず好意を寄せて
いるのだろう、「相沢君、あたしの水着見たくないの?」「私の、
じゃなくて、私たちの、でしょっ」「あ、あのっ、い、いやなら…
…無理しなくても……」とまあ……少し、イラつく。
 目の前でこうもあからさまな誘いを受けている祐一さんを見てい
ると、心の奥から昏い感情が染み出してくるようだ。
 結局お出かけは断ったのだが、彼女たちの残念そうな顔はなかな
かに見物だった。英断です、祐一さん。
 その祐一さんはといえば、廊下に座り込んで日向ぼっこの最中で
ある。女性の誘いを断ってしていることがそれとは、名雪たちが聞
いたら烈火の如く怒り狂うこと請け合い。……チャレンジャーです
ね、祐一さん。そんなところもステキですけど。
 ――ちりん、りいん、
 風鈴の涼やかな音色が耳に届く。
 今日は真夏にしては珍しく、陽も穏やかで風も冷たい。じわじわ
とうるさいセミは相変わらずの様子だが、人工的な音は風鈴だけで、
しかしそれは不自然なものではく、実に風情のある音色だ。
 空は気持ちのいいくらいに蒼く晴れ渡り、雲も絵の具をそのまま
垂らしたように真っ白。太陽の光をいっぱいに浴びた草木は濃い緑
の葉を繁らせ、さらさらと風に揺られている。
 洗濯物を入れたかごを地面に置き、物干し竿を庭に用意する。こ
れだけ天気がいいと、洗濯のし甲斐があるというものだ。
「うー……んっ」
 ぐっと伸び上がり、大きくひとつ深呼吸をする。
 そしてそのまま深くため息を吐く。……空はこんなにも晴れやか
なのに、それでもやはりわたしの心は霞掛かってどんよりと曇り空。
 ……わたしも、
 祐一さんに、素直にこの想いを告げることができたなら――
 できはしない、してはいけない……、そんなこと、赦されるはず
もない。わたしと祐一さんは、血の近い、それこそいまは家族のよ
うなものなのだ。こんな想いを、独占欲を、妬心を、劣情を……い
だくこと自体、赦されることではない。
 ――けれど、気づいてしまった。
 祐一さんが喜ぶだけで、私も嬉しくなる。
 祐一さんが怒るだけで、私も怒りっぽくなる。
 祐一さんが哀しむだけで、私も哀しくなる。
 祐一さんが楽しそうにするだけで、わたしも楽しくなる。
 祐一さんの一挙手一投足に、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ……、
そしてただ見ているだけで、ただそばにいるというだけで、こんな
にも幸せな気持ちになる。
 ――これって、なに?
「それは、恋、でしょうか……?」
「……はい? 秋子さん、なにか言いました?」
「え、あっ、……いえ、なんでもありません」
 無意識に口に出していたのか、わたしの独り言を聞いた祐一さん
が不思議そうにこちらを見上げている。……うう、なんて無防備な
んでしょう。
 最近このあたりに痴女も出ると聞く。いや、この祐一さんを見て
平静な女性などいはしない。多分に主観の混じった意見だろうが、
身近なところでぽんぽんと修羅場ってるのを見れば、あながち間違
ってもいなはずだ。
 祐一さんは飛び抜けた容姿を持ってるというわけではない。しか
し、溢れんばかりの優しさというか、フェロモンというか、匂い…
…ま、まぁ、とにかく、やたらと異性を惹き付けるなにかがある。
そういうものは、ただひとりにさえ効けばいいものを、指向性皆無
の全方位全力放射。
 ……それはそれとして、痴女である。
 そんな祐一さんにヤられてしまう婦女子がいて、しかも抑えきれ
ずに行動に及ぶようなことがあれば、いかに男の祐一さんとはいえ、
無事には済むまい。クスリでも嗅がされれば、男だとか女だとかは
関係ない。そ、その上で手足を拘束されようものなら……てて、て、
貞操の危機ですよ?
「……秋子さん、どうかしました? 顔、赤いですよ?」
「ふぁ!? い、いえ、なんでもありませんから……」
 心配げな表情で上目遣いに見つめる祐一さん。だから、そういう
何気ない仕草が、非常に、その……ね? ……わざとですか?
 ……………………。ん?
 もしかして……痴女候補に一番近いのは、わたし、でしょうか。





 衝撃の事実(否定しきれないところがイタい)に愕然としながら
も家事をこなしていたのか、気が付いたらもうお昼になろうという
時間だった。かなり記憶が曖昧。
「はあ……」
 重症、だろうか。
 実際祐一さんをどうこうしようとは(いまのところ)思わなくも
ないが、実行に移さないだけ、まだ正常だ。あと一歩を踏み込む勇
気がわたしには無い。
 ……いえ、踏み込まなくていいんです。踏み込んでどうしますか、
わたしは。越えてはいけない一線というものがあるんです。
 甥と叔母。これはどうしようもない事実なのだ。
 でもそんな血の背徳感もそれはそれで。
 ――じゃなくて。そうじゃなくて。
「うう……」
 祐一さんとあれこれしたいとか、そんなことを考えてはいけない。
いけないというか……こんな風に悩むこと自体、おかしなことだ。
 わたしと祐一さんは、叔母と甥。
 ……ええと。
 …………。
 ……なんで、だめなんでしょう?
 やはり遺伝的な障害が現れやすいとか、そういった問題があるか
らだろうか。聞く話によると、そう気にするほどの確率ではないら
しいけれど……。
 えと、そ、それなら、お、おしりとか?
 ――じゃなくて。だから、そうじゃなくて。
 欲求不満ですか、わたしは。
「はふ……」
「秋子さん、疲れてます?」
 祐一さんが廊下に座り込んだまま、わたしを見上げて話しかけて
くる。
「いえ、それほど……疲れて、ますかね……?」
 自分でもよくわかっていない。
 疲れているのか、ストレスなのか、欲求不満なのか。……どの理
由にしても、原因は祐一さんということには代わりなさそうだ。
「そうですね……最近、ため息多くなってるような気がしますけど」
「それは、言われてみると……」
 多いかもしれない。
 ……ですから、それは、祐一さんが、ね?
「あの、秋子さん、ちょっとここに座ってください」
「いいですけど、どうしたんですか?」
 どきどきと早くなる鼓動をさとられないよう、平静を装って祐一
さんの側に座る。
「ええとですね」祐一さんは足をたたんで正座になる。「うちの母
さんが、疲れたときはいつもこうしてるんです」
 そう言ってわたしの肩を優しく包み、そっと引き寄せる。
「え、え? ええええ?」
 視界が90度傾き、右頬に暖かな感触。
「仕事から帰ってくると、俺に言うんですよ。『祐一、あれやって
〜』って。男にされてなにがいいのかわかんないんですけど」
 祐一さんの声が、左耳から……つまり、上の方から聞こえてくる。
「あ、あ、あ、あの、あの」
 ひ、膝枕ですか? 膝枕なんですか? 膝枕なんですね!?
「とりあえずからだの力抜いて楽にしててください」
「は、はい……」
 そういは言っても、わたしのあたまの中では「無理無理無理無理
無理無理無理!!」とか連呼してますけど?
「俺みたいな居候が増えたせいで余計な苦労かけてますよね……」
「いいえ! そんなことはありません……決して。祐一さんがいて
くれて、わたしは……」
「……ありがとうございます」
 さら、と祐一さんがわたしの髪を梳く。
「母さんに膝枕するときはいつもこうしてるんですけど……どんな
もんでしょ」
「あぁぁぁ……」
 姉さん、なんてことを教えてるんですか……。
「いいですか?」
「い、いいです……、すごく、気持ちいいです、これ……」
「そうすか……、いや、俺にはよくわかんない感覚なんで。嫌だっ
たら言ってください」
 なでなでさわさわ。
 うっ……。な、なんかものすごくいいです……。こ、こう、なん
というか、祐一さんのてのひらが暖かくて、心地よくて、やさしく
て。
 これでほかのところ撫でられちゃったらどうなるんだろうとか、
祐一さんの……あの、あれが、すぐそこにあるんだなぁとか余計な
こと考えると、別な意味でよくなってくる。
「は、はふ……」
 もう溶けそう。
 どうしてこれだけのことで、ここまで気持ちがいいのだろう……。
 やはり、祐一さん、だからだろうか?
「秋子さんの髪質って母さんと全然違いますね。母さんのはくせが
少し強いんですけど、秋子さんはくせもないし、細くてさらさら。
撫でてるほうも気持ちいいですし」
「ん、んん……」
 ええと、あんまり撫でられると、その、なんというか……とても
イケナイ気分になってくるんですが、あの、祐一さん、わかってま
す? ……わざとですか?
「なんか、変な感じですね」
「へ、変ですか?」
「というか、いつも俺の方が秋子さんに頼りっぱなしじゃないです
か。それが、いや俺がそうしたんですけど、名雪みたいに膝枕で丸
まってるのを見ると、そんな感じしますよ」
 名雪みたいに? 名雪に膝枕してるんですか?
 ……なぜだろう、自分の娘だというのに、非常に腹立たしい。
「まあ、母さんも同じ格好ですけど。やっぱり姉妹ですね」
 ……なぜだろう、自分の姉だというのに、非常に腹立たしい。
「祐一さん……」
 髪を撫でていた祐一さんの手を取り、頬をすり寄せる。大きな手
だ。かっちりとした、それでいて繊細な、男の手。
「はい?」
「…………」
 わたしはあたまの下にあるふとももに左手を這わせる。
「秋子さん?」
 想いを告げることすらできないよわむしなわたしでも、我慢ので
きなくなるときだってある。衝動的に、すべてを捨てて、祐一さん
を自分だけのものにしたいと……。
 少しだけからだを起こし、祐一さんの胸に額をあてる。
「……秋子さん、どうかしました?」
 弱くからだを押しつけると、祐一さんは足を崩して後ろに左手を
つき、右手でわたしを支えるように抱きしめてくれる。意識せず、
わたしは祐一さんの腰に手を回していた。
 わたしだって。
 わたしだって、あの子たちに負けないくらい、祐一さんを好きな
のに。……愛しているのに。どうして、祐一さんは……姉さんの息
子として生まれてきたのだろう。
「祐一さん……」
 顔を上げると、祐一さんの瞳と、視線が合う。
 ――ひどく困惑した、祐一さんの瞳と。
「あ……ああ……あ……」
 受け入れてはくれない――
 あたりまえだ。祐一さんにとって、わたしという存在は、自分の
母の妹、というものでしかない。色事の対象として、見られるはず
もない。
 あたりまえのことなのに、どうして……どうしてこんなに哀しい
のだろう。どうして、こんなにも胸が痛いのだろう?
 それでも、離れたくはなかった。離したくなかった。
 こんなことまですれば、わたしの想いを祐一さんに隠し通すこと
はできない。だから、これで終わりだ。
 最初で、最後の、ほんとうのこころを込めた、抱擁。
「……秋子さん」
 びく、とわたしの肩が震える。
 ――祐一さんの声を聞いて、いまさらながらに後悔の念が湧き上
がってくる。
 これで、終わり?
 そんなの……いや……。
「俺……」
 祐一さんの背中に回した手が、ぎゅとシャツをつかむ。
「こんなとき、どうすればいいのかわかりません。でも、秋子さん、
無理のある生き方っていうのは、やっぱり疲れますよね」さわ、と
わたしのあたまを撫でながら続ける。「秋子さんって、正直すごい
と俺は思います。誰にも頼らず、甘えず、この家をひとりで守って。
でも、それって、無理なんですよ。完璧人間みたいなうちの両親で
さえ、お互いに支え合って、お互いに甘えて、ときどき俺にまで甘
えて、そうやって生きてます」
「…………」
「ええと、つまり、なにが言いたいかっていうとですね……その…
…うーん……。俺もよくわかんなくなってますけど、ええとですね、
そんなに気張らなくてもいいじゃなかな、ということ……だと思い
ます。たまには誰かに頼って、たまには誰かに甘えて。気を抜くの
も必要ですよ。仕事とか家事とか、大変でしょうけど……」
「…………」
 ……あの、祐一さん?
 もしかして、普通に滅入ってると思ってわたしを励ましてくれて
たりしますか?
「たいして役に立たないかもしれませんけど、俺にもできることが
あったら言ってください。やれるだけのことはしますから」
「……祐一さん……」
 ついさっきの、これで最後なんです的な悲愴感はどうすれば?
 しかもわたしの気持ちにも全然気づいてませんね……。
 …………まあ、とりあえず、抱きしめてても問題なし?
 ……それでは。
「ぎゅ〜〜〜っ」
 と言いつつ思う存分祐一さんに抱き付く。
「ど、どうしたんですか?」
「……いえ、幸せだな、と。祐一さんみたいな甥っ子がいてくれて、
わたし、嬉しいです」
「う……そう正面から言われると、恥ずかしいものが……」
「それじゃ、もっと言いましょう。祐一さんがいてくれるだけで、
わたしは楽しいんです。いままではなんでもなかった日常が、幸せ
いっぱいの毎日ですよ」
 勢いに任せて際どいところへ。
 それでも祐一さんは気づかないだろうが、わたしはどきどきだ。
「わ、悪い気はしませんけど、すっごい恥ずかしいです」
 祐一さんは顔を赤くしてそっぽを向く。
「ふふ……そんなところも、」
 大好き、ですよ?

 と、どっぷりと幸せに浸かって数分。
「……お母さん、なにやってんの」
 ………………あぁ。
 これが修羅場っていうやつですね。
 
 
 
 
 

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初出:2003/08/20 灰色楽園
都々々(みやこ みと)