「それじゃお母さん、行ってくるね」
 ゆらゆらと手を振りながら、名雪は玄関を出て行く。わたしはゆ
るみそうになる頬を全力で引き締めつつ、気を付けて行ってらっし
ゃい、と娘の背中に声をかけた。
 ぱたん。戸が閉まると同時に、思わず笑みがこぼれる。
 真琴は友人の家に遊びに行って、いま家にいるのは、わたしと祐
一さんだけ。そしてその祐一さんも、夜更かしのためかいまだに夢
の中。実質、この家にいるのはわたしひとりのようなものだ。
 スリッパをぱたぱたと鳴らしながら、玄関をあとにする。
「くふふ……」
 このあとのことを考えるだけで、もう楽しくて楽しくて仕方がな
い。含み笑いがもれて、はたからみたら不気味な様子だろうが、そ
んなことは気にもならない。しあわせを独り占めしているような気
分だ。とにかく、頬の筋肉が弛緩しっぱなし。
 にやにやとしながら台所へ移動し、冷蔵庫の前に立つ。
「ごたいめーん」
 などと言いつつ、がぱり、と冷蔵庫を開ける。
 様々な食材がひしめく中、それは後光が差しているような神々し
さを放っていた。ぞくぞくと、快感すら伴う喜びがわたしを支配す
る。
 ああ、このために、わたしは生きているんだ。
 少々大げさだろうが、けれどそれはある意味、真理だ。この世の
理だ。世界は欲望によって動いているのだから、それは至極当然の
事実だ。
 畏れ敬うようにおずおずと手を伸ばし、『それ』に触れる。
「ああっ」
 ここで声を上げる必要はないが、しかし出てしまうものは仕方が
ない。抑えようとしても抑えられるものでもなし、とりあえず毎度
のお約束になりつつあったそれをこなして、両手でそっと取り出す。
 いちごである。
 全方位全角度どこからどう見ても、いちご以外のなにものでもな
い。そんな当たり前すぎる現実に涙するわたし。
 客観的に見て「ちょっと……」な光景でも全然気にならないあた
り、このいちごの偉大さが分かるというもの。
「くふっ」
 甘いいちごの香りに、思わず声が漏れる。だれも聞きはしないだ
ろうし、そもそも聞く人間がいないからこそ、わたしはこうしてい
ちごのパックを抱えているわけで。とりあえず調子に乗ってくるり
と一回転。
「いちごー」再度くるりと。「ああ、もう、どうしてそんなに――」
 がたっ。
「え?」
 まるで、恐怖を感じてからだが硬直した際に不可抗力で床を踏み
鳴らしてしまった、という、そんな音が背後から聞こえた。
 ……いま、ここには、わたししかいなかったはずで。
 油の切れたブリキ人形のように、ぎぎぎ、と軋みを覚える首元を
ひねる。
「――さて。名雪の様子を見に学校へと向かってひた走ることにし
よう」
「ゆ……ゆういちさん……」
 いまはまだ寝ているはずの甥が、わざとらしくわたしから目をそ
らして現実から逃れようとする姿が、そこにはあった。
「なっ、いっ、いつからっ」
「はい? なにがですか? ボクはこれから学校に行くんでお昼は
結構ですからもういきますねそれじゃあ秋子さん行ってきます」
 がっし、と。
「ど、どうしてそんな逃げるようにっ」
「秋子さん……いえ、なんでも……ありませんから。ほんとに……」
 いやっ。どうしてそんな痛ましいものを見るような瞳でっ。
「ゆ、祐一さん? これはですね、あのですね、そ、そうっ、これ
からお菓子を作るんです。作るんですっ」
「わかってます。わかってますよ、秋子さん」
 わかってません。わかってません。全然わかってません。
「――忘れて下さい。祐一さんはなにも見てません。わたしもなに
もしてません」
 ぐいぐいと迫りながら必死に言い繕う。いや、繕ってはいない。
とにかくなにもなかったことにしたい。なにもなかったことにして
下さい。
「あう……あ、秋子さん……」
「い、い、で、す、ね?」
 祐一さんは頬を染めてこくこくと頷く。
「それなら、いいんです」
 拘束していた祐一さんの両腕を解放する。
 ――まぁ、そんな言質を取ったとしても、そうそう記憶から消せ
る出来事ではないだろうし、わたしも忘れられるとは思えない。気
休め程度にもならないが、ないよりはましだ。
「そ、それじゃ俺はこれで……」
「祐一さん」
「はいっ!」
 なにをそんなに怯えているのだろうか?
「これからおやつでも作ろうと思ってたんですが、手伝ってくれま
すか? 手伝ってくれますよね?」
「ええ、もちろんです! ボクが秋子さんのお願いを断るわけない
じゃないですか。アハハハハハハハハハ」
 なぜか虚ろな瞳でこたえる祐一さん。
「そうですか。ありがとうございます。あ、ちゃんとご褒美もあげ
ますからね」
「ご褒美……ですか」
 祐一さんは不安げな眼差しで私を見詰め、「あ、別に……」と言
って黙り込む。なにを想像して返事をしたのかはさておいて、わた
しは祐一さんの腕をとり台所へと連行、ではなく任意同行……。
 まぁ、言い方はこの際関係ないだろう。
「さ、はじめましょうか。時間、なくなっちゃいますから」
「アハハハハハ……」
 祐一さんの売られていく仔牛のような表情が、なぜかわたしには
心地よかった。
 
 
 
 
 

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初出:2003/03/09 灰色楽園
都々々(みやこ みと)