はじめにわかったのは、自分はもう助からないだろう、というこ
とだった。いくら幼い自分でも、それくらいのことは理解できる。
 しかしなぜそうなのかは、結局のところわからなかった。
 なにか大事な物を失ったようにぽっかりとこころに穴が開いてい
て、そこにひゅうひゅうと吹き込む風がゆっくりとぼくの命をくし
けずってゆく。
 彼女が現れたのは、そんなときだった。
 
 
 
 
 
 
 
「結局……奇跡が起きたのは、相沢さんだけなんですね」
 責めているわけじゃない。単に事実の確認をしただけに過ぎない。
だというのに、私の発した言葉は自分でもはっきりとわかるほどに
刺々しいものだった。
「……すまん」
「謝らないでください。……ひどくみじめな気分になります」
 ああ、と相沢さんは生返事を返し、膝の上で眠る真琴のあたまを
優しげに撫でる。3人掛けのソファに悠々と伸びている真琴。その
寝顔は幸せに満ちたもので、見ている私もつられて微笑みそうにな
るほどだ。
 奇跡、というものを私は信じることはできなかった。あるいは、
希望を持つことが怖かったのかもしれない。相沢さんは希望を持ち、
奇跡を願った。私と相沢さんの違い。それがこの結果なのだろうか。
 結局のところ、私は弱い人間だったということだ。
「でも、珍しいな。天野がうちに来るなんてさ」
「ええ。そうですね」
 答える言葉も素っ気ない。こんな風に言う予定じゃなかったのに、
口が勝手に動いてしまう。人付き合いに慣れていないということも
あるけど、どうにも相沢さんが相手だと調子が狂う。
 上目遣いに相沢さんをうかがう。私の言葉を気にした風もなく真
琴のあたまを撫でているのを見て、気付かれないようにため息を吐
いた。このくらいのことで嫌われはしないだろうが、それでもやは
りほっとする。
 なぜ? と自問する。
 嫌われたくないと、このひとだけには冷たい瞳で見て欲しくない
と、わたしはそう思っているのだ。考えてみればひどく単純なこと
で、だけど私にはそれがなにかを理解するのに長い時間をかけなけ
ればならなかった。
「なにか用でもあったのか?」
「……いえ。ただ真琴の顔を見に来ただけです」
 小さな寝息を立てて、真琴は眠り続ける。
 ひとではないもの。あやかしの一族。しかしそんなことは私達に
関係のないことだった。たしかにこの子達は災禍をもたらしたが、
しかし同時に幸せもわずかながらに与えてくれた。
「相沢さんは……真琴が、好きですか?」
 唐突な私の質問に、相沢さんは「うーん……」と呟く。
「好きか嫌いかで答えれば、好き。ただそれは……まぁ、いわゆる
異性としての好きかと聞かれれば、疑問だな」
「……むくわれませんね、真琴が」
 私はわざとらしく深いため息を吐く。
「なんだそりゃ」
「真琴は相沢さんが好きで好きで好きで……それはもう、言葉では
表せないほど好きなんですよ? この子は、もう一度相沢さんに会
いたいがために、その運命すらねじ曲げてしまった。そこまで愛さ
れていて、当の本人は『好きかわからない』だなんて……真琴が可
哀想です」
 もう一度見せつけるようなため息。
「……そんなこと言われてもな」
 実際私だって同じようなものなのだが。私の元にやってきた妖狐、
あのひとに対する想いは紛れもない家族としてのそれだった。早く
に父を亡くし、母は仕事でろくに家にいない。そんなところにふら
りとやってきたのが、あのひとだった。
「手の掛かる妹なんだよなぁ、真琴って。生意気だけど、人見知り
するし、気が弱いし。ときどきは可愛いときもあるんだが……」
「妹、ですか」
 それじゃあ、私は?
 聞いてみたかったけれど、私にそんな勇気はなかった。
「そんな感じだろ?」そう言いながらやさしく微笑む。「真琴も天
野になついてたし。結構お姉ちゃんしてたけどな、あのときは」
 それは否定できない。私に妹はいなかったが、たしかに真琴はそ
んな雰囲気を持っていた。
 あるいは遠回しに老成していると言いたいのだろうか。
「まぁ、なんにせよ、戻ってきてくれてよかったよ。奇跡だろうと
真琴の執念だろうと……戻ってきてくれたんだ。これ以上のことは
ないな……」
 なぜ相沢さんだけなのだろう。
 あのひとは……私に会いたくはなかったのだろうか。
 それとも、私が奇跡を願わなかったから?
「う……」
 久しく忘れていた感情がこみ上げてくる。
 私はあのひとが消えてから、毎夜泣いて過ごした。
 寂しかった。悲しかった。
 日常がひどく空虚な、まるでがらんどうになってしまったように。
あのひとが来る前の生活に戻っただけだというのに、あまりにもこ
ころが寒々しい。
「どうした?」相沢さんが心配そうに口を開く。「……もしかして、
思い出してるのか? 天野の……あいつを」
 こくりと力無くうなだれる。相沢さんの顔を見ることができない。
いまの相沢さんは……無条件で私を甘えさせてくれるだろう。そん
なことはできない。自分の弱さにつけ込んで、相沢さんにすがるよ
うなことをしたくはなかった。
 相沢さんは私を慰めるでもなく、ただじっと落ち着くのを待って
いる。そんな気遣いが少しだけ嬉しい。
「真琴は……」言葉に詰まる。「真琴は、もう消えたりしませんよ
ね。ずっと……ずっとずっと、相沢さんと……」
「保証はできないけどな。真琴が望む限り、そばにいる」あぁ、と
相沢さんは何かを思い出したように声を漏らす。「もちろん天野も
な。おっと、美汐だっけ」
 『祐一は真琴の祐一なんだから、美汐も祐一って呼ばないとだめ
なんだから。祐一も美汐のことは美汐って呼びなさいよっ』とよく
わからない理論を振りかざしていた真琴のことを思い出しているの
か、相沢さんはくすくすと小さく笑う。
「なぁ、美汐」
「はい」
「真琴のこと、好きだろ?」
「それを言うなら相沢さんもそうでしょう?」 
 私はたしかに真琴が好きだ。けれど、こうして戻ってきた姿を見
ると割り切れない想いも感じる。
「ま、そうなんだけどな」
 相沢さんはうりうりと真琴の頬をつつく。
「……美汐は、さ。この世界が偽物じゃないかって思ったこと……
ないか?」
「なんですか、急に」
「……昔から思ってたことなんだ。ここにいる俺は、本当の俺じゃ
ないのかもしれない、ってさ」
 なにを言い出すのだろうか。相沢さんは相沢さんだ。
「7年前のあの日以前のことがひどく曖昧で……、それから俺は違
う俺になったのかもしれない。いつかこの俺の意識が消えそうで、
不安なんだ」さらさらと真琴の髪をなでつけながら言う。「あの日
から時々、昔の夢を見るようになった。この町を駆け回ってた夢。
けがをした俺を看病してくれた女の子。それと……別れ。夢の中の
俺が、多分本当の俺なんだろうな」
「……ありえません、そんなこと。しっかりしてください、相沢さ
ん。せっかく真琴が帰ってきてくれたんですからそんな情けない顔
しないでください」
 はぁ、と相沢さんはため息を吐く。
「それもそうか。考えても仕方ない。いまの俺が本当の俺じゃなく
ても、俺は俺だしな」
 相沢さんは自分の言い回しがおかしかったのか、ふっと微笑む。
「ですから、そんなことはありえません」
 私も少しおかしくて、口元に手を当てて笑ってみた。
「ああ、そう言えば夢の中の女の子、美汐に似てたかな。と言って
もあっちはせいぜい小学生ってところだったけど」
「そうですか?」
「ああ、いまの笑顔とかな」にやりと笑う。「仕草までそっくりだ」
「ふふ……なんだかおかしいですね」
「まぁ、7年前から見てるし、すり切れたような夢の内容だけど」
 少しだけ、その夢の中の女の子とやらに興味を覚えた。
「どんな女の子でした?」
「どんな、って言われてもな。何せ夢の話しだし……。あ、そうだ。
名前は確かみっちゃんって言ったかな。俺より3、4歳下だった」
 ふと奇妙な既視感を覚える。
「一人っ子で、両親は……って美汐、どうした?」
 言われて、自分が涙を流しているのに気付いた。
 まさか――うそ、そんなこと――
「その女の子……好きな食べ物は梅干しとか言いませんでしたか?」
「エスパーか? いや、それよりなんで泣くんだよ……」
 相沢さんは真琴を膝の上に乗せたままおろおろと戸惑う。
「ごめんなさい……なんでもありません。本当に」ごしごしと流れ
る涙を袖口でふき取る。「ただ……」
 奇跡はとうの昔に起きていた。私が気付かなかっただけで、あの
ひとは再びこの世界に戻ってきていた。
 なんのことはない、結局はそういうことだったのだ。
「ただ?」
「ちょっと、嬉しかっただけですっ」
 そう言いながら私は相沢さんに抱きついた。
 だって、相沢さんはあの”祐一さん”なのだから!
 
 
 
 
 
 
 
 彼女は言った。
 また会おうね、と。
 だからぼくは、もう一度会いに行くんだ。

 
 
 
 

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初出:2003/02/04 灰色楽園
都々々(みやこ みと)