世界は闇に覆われている。それは比喩でもなんでもなく、事実である。
 見上げれば灰色の空、白い雪たち。この大地に住まう生物は、その雲の向こうになにがあるか、見たことはない。
 伝承にだけ存在する『太陽』と『月』。ひとがその姿を目にすることはもうできないのだ。伝説やいい加減な言い伝えでは、大地の果て、世界の果てに辿り着くことができれば、青い空が広がる優しい世界があるという。しかしだれもそれを信じることはしない。
 どうやってそんなものを確かめられたというのか?
 どうやってこの冷厳な世界の果てを探したというのか?
 出来の悪いうわさ話にもならない……つまりそれは単なる希望に過ぎなかった。なんのために先人たちは天蓋都市を築いたのか、その理由を考えれば、世界の果てを探すことなど不可能だということがすぐに分かるはずだ。
 この雪の世界は、ひとに冷たい死を与える。

 闇の中に一筋の光があった。まるでそこだけを切り抜いたように雪を映し込み、闇を照らしている。それは雪の色で染め上げたかのように汚れのない白から発せられていた。
 飛龍は白雪を巻き上げながら常闇の世界を疾走する。
 どこまでも続くかと思える黒の中に、ぽつぽつと存在する天蓋都市からこぼれ落ちる陽光が、かすかに暗黒を照らす。人々を閉鎖する降雪も、幻想的とも言える闇の世界においては演出の一部にしかならなかった。
 飛龍を運転している祐一はいつものジャケットに実用一点張りのパンツ姿。
 張り出した風避けには簡易型遮断結界を施して、多少の防風と防寒を持たせてあり、祐一は時折の燃料補給(きつめの酒)だけで暖をとることができた。これが飛龍完成前は、がちがちの完全装備でしか天蓋都市の外に出ることはできなかったのだ。飛龍様々である。
 しかし燃料である魔力結晶が尽きればただのがらくたに成り下がってしまう。しかも使いようによっては燃費がすさまじいことになるため、補給とメンテは欠かすことができない。結晶自体は設備さえあれば祐一自身精製可能であるから実質タダとなるが、その設備というのはなかなかに大規模。持ち歩けるようなものでもないため、立ち往生すればそれはすなわち死を意味する。
「あーっと、このまままっすぐ……うし、もうすぐか」
 古ぼけた地図を片手に呟く。ナビシステムは走行経路の保持しかできないため、地図と突き合わせて目的地への道筋をたてるしかない。しかも正確な地形を計ることが難しいということもあり、地図は極めつけに適当。天蓋都市で一生を終える人々にとって、元々外部の地図というものは必要ないのだ。国同士の交流もあるかないかわからないようなものであるし、どこになにがあろうが知ったこっちゃないというのが大半だろう。
「お、ようやく灯りが見えてきた。あれが――天蓋都市、クラタ」
 目的地が肉眼で確認できれば結晶の残りを気にしなくても大丈夫だろうと祐一は考え、グリップをくんとひねり、出力を一気に上げた。





「開門を! 開門を願う!」
 見上げるほどに巨大な蓋門に向かい、祐一は大声で叫ぶ。
 しばらくして、ごごぉ、と重々しい音が響き、蓋門が僅かに開いた。ひとひとりが通るのに十分な隙間から、祐一はひょいとからだを滑り込ませる。
 飛龍は蓋門横に置いてある。起動には祐一の声と言葉が必要なため、持って行かれる心配もないだろうし、そもそも外に出てくる人間が極少数だ。飛龍のリアトランクには結晶と対異形用の装備を詰め込んでいるから、祐一の手荷物は長方形の大型鞄ひとつで済んでいる。
「おう、無事に帰ってきたか……って、おまえさん見たこと無い顔だな」
 出入国の管理を行っている詰め所から声が掛けられる。白んだ髪に豊かな白髭をたくわえた老人は、祐一を見てまゆをひそめた。
「ああ、外から来た。入国許可を頼みたいんだけど」
「まさか! い、いや、よく来たな、外のお方よ! まえにあんたみたいなのが来たのは、もう20年くらい前だ。若いのに大したもんだよ」
「あー……まあ、こんな物好き、そうそういないでしょうからね……」
「それでどこから来たんだ?」
「水無瀬ですよ」
「ほう、水無瀬か。近くもないのに、まさかひとりで来るやつがいるとはな」
 老人は書類にペンを走らせながら頷く。
「よし、これで入国手続きはおわりだ。ようこそクラタへ。ゆっくりしていってくれ!」
「長旅で疲れたからな、ゆっくりさせてもらうよ」
 祐一はひらひらと手を振って詰め所をあとにする。
 天蓋都市クラタ。建国は水無瀬よりも随分と前であり、立ち並ぶ家々も歴史ある伝統的な様式だ。どこか懐かしさを覚える街並みに、祐一は心が安らいでいくのを感じていた。初めての異国、不安がなかったかと言えば嘘になる。行き交う人々も、街の匂いも、それは祐一の生まれ育った水無瀬とそう変わるものでもなかった。
「さて、まずは泊まるところから探すとしますか」
 とはいうものの、天蓋都市に宿泊施設は無いと言っていい。
 唯一、酒場には酔いつぶれた客用に部屋が用意されていたりするため、祐一はそれをあてにしているのだ。もちろん『白い兎亭』にも五部屋ほど用意してある。
「とりあえず片っ端から頼んでみるか」
 祐一はそう呟き、ちょうど目の前にあった酒場に入っていった。
 りりんりん――と、ドアベルの涼やかな音。店内は雰囲気作りのためか窓もなくて薄暗く、柔らかな照明が心地よい明るさを保っている。客の姿はない。店主らしき老人は入ってきた祐一を一瞥し、小さくいらっしゃいと呟く。
「失礼。ここの責任者でしょうか?」
「ええ、そうです。なにかご用で」
「えーとですね、ここに裏部屋はありますか?」
「ありますよ。……もしや外のお方で?」
「はい。あの、もしよければ一室お借りできませんか? もちろんお金は払います」
「おお、そうでしたか。いや、お代は結構。代わりに少しばかり手伝っていただければ、それでいいですよ」
 祐一にとっては渡りに船である。二つ返事でそれを受け、祐一と老人はがっちりと握手を交わす。
「ではしばらくの間お世話になります」
「いや、こちらこそ宜しく頼むよ」





 クラタの街は緑が多い。国土の東半分はひとの住まない『自然』の風景だ。そこは公園と呼ばれ、人々の憩いの場となっている。天蓋近くに円を描いて並ぶ灯火の数は十。それはこの都市が優秀な技師を胞している証であり、ここが豊かな国であることを示している。だからこそこれだけの『自然』を維持できるのだ。
 公園の中――木々に囲まれた場所に大きな建物がある。様々な書物、知識が詰め込まれた、遙かな昔を伝える建造物だ。その蔵書量は途方もなく、ここでわからないことはないとまで言われるほどであった。しかし悲しいかな、その利用客は規模と反比例するように少ない。
 その『図書館』で祐一は熱心に書物を読みあさっていた。
「う゛ーん……」
 がしがしとあたまを掻き、本を閉じる。
「はあ……先はまだ長いな……」
 積み上げられた本の塔を眺め、ため息を吐く。
「ホントにどこにあるのやら。……ま、人生まだまだ始まったばかり。気長に探しましょうね、と」
 ぽん、と本の山に読んでいたものを置く。その中から十冊ほどを残し、あとは元あった場所に返して、司書に貸し出しの許可を取りに行く。さすがにこれだけの冊数をここで読み続けるというわけにはいかないだろう。
 貸し出しのための書類を貰い、祐一は図書館をあとにする。
 十冊程度とは言え、ひとつひとつが厚いため、総重量は結構なものになる。よろよろと覚束ない足取りで宿へと戻る祐一は、どうにも調子の出ないからだに首をかしげる。華奢な見た目通りの体力しかない祐一だが、クラタへ来てからは更に力が出ない。奇妙な倦怠感を常に感じていた。
「あー……疲れてるな、これは。ここのところ働きっぱなしだったし、そろそろ休みに入るか……」
 途中こけそうになりながらも、祐一はなんとか部屋を借りている酒場へと帰ってきた。店主である老人に「しばらく休みます」と告げ、自室へ戻る。
 抱えていた本をテーブルに置いてベッドへ倒れ込むと、溜まりに溜まった疲労感が一気に襲ってきた。
「だる……」
 なにをするにも、体調は万全でなければ意味はない。とりあえず2〜3日の休養を取ろう、と祐一は鈍くなったあたまで考える。
「はあ……彼女のひとりふたり確保しとけばよかった……。こういうときに看病してくれる女の人ってのはポイント高いよなぁ。……うう、虚しい」
 さめざめと呟く祐一。心底そう思っているようだ。
「……とりあえずもう寝よう。時間だけはたっぷりあるんだし、借りてきた本は明日からということで……と自分に言い訳しつつ、おやすみ……」
 祐一は枕に顔をうずめ、近くを流れる小川の音を聴きながら眠りに就く。静かな水音は優しく、心地いい子守唄のようであった。





 世の中にはどうしようもないことがいくつもある。
 たとえば、天蓋都市の外に住むこと。
 たとえば、絶え間なく降り続ける雪を止ませること。
 たとえば、この世界がどのような形をしているのか調べること。
 たとえば、世界の果てになにがあるのかを確かめること。
 たとえば、風呂に入らないと感じる不快感のこと。
 最後の例えが一気にグレードダウンしているのは否めない事実だが、祐一にとってはそれが一番どうしようもないことだったりするのもまた事実。祐一がクラタの街に来てからもう数日にもなるが、いまだシャワーすら浴びていなかった。汗をかくほど暖かくもなく、厚着をするほど寒くもない、実に心地良い気温を保っているこの一帯。祐一は冷水で頭を流す程度で済ませていたのだが、しかしそろそろからだがむず痒くなってきた。
 祐一が世話になっている酒場『赤猪亭』は、個室毎に風呂も設置されていた。『白い兎亭』では共同の風呂がひとつあるだけだ。贅沢なことを、と祐一は思ったが、実際にそこをみてため息を吐く。
 使われた形跡がない。率直に言えば、汚い。
 掃除の後も見られないことから、店主も放置しっぱなしなのだろう。確かにここを利用するほとんどは酔いつぶれた客だ、風呂に入るようなこともしない。たぶんそれが分かっていたからこそ、『白い兎亭』前店主である祐一の両親は共同にしたのだ。
 浴室の隣、脱衣所もほこりがうっすらと被っていた。洗面台はくすんだ白、鏡も曇り用を成していない。祐一はもうひとつため息を吐く。
「少し掃除するか……」
 寝起きで働かないあたまを覚ますのには丁度良い、と祐一は掃除を開始した。
 ぼーっとしていても手は動く。なにを考える必要も無い分、楽なことだ。意識がはっきりしてきた頃には大体の部分は綺麗になっていた。これなら気持ちよく風呂に入れるだろう。
 仕上げとばかりに洗面台の鏡を磨き、汚れた雑巾をぽいと捨てる。
「完了……と」
 あれほど汚かった脱衣所と浴室はぴかぴかと――まではいかないまでも、多少のことに目をつぶれば十分に綺麗になった。……あくまで表側のことではあるが。シャワーのコックを捻れば真っ赤な水が流れてくるだろうし、隅の方にはまだまだ汚れが溜まりまくっている。
「さて、大体終わったことだし、ひとっ風呂浴びるとしますか」
 祐一は洗面台のコックを捻り、手に付いた汚れを落とす。ふと視線を上げると、大きな鏡に映った自身と目が合う。
 ――奇妙な違和感を感じた。
「……しばらく、というか結構な間鏡なんて見てなかったから忘れそうだったけど……俺ってこんな顔だったっけ」
 記憶していた姿とまるで違うものがいるわけではない。たしかにそこに映っているのは自分だということははっきりとわかる。自分の顔を忘れるはずもない。
 祐一の容姿は元々同年代に比べてやや幼さを残していた。華奢なからだも相まって中性的な雰囲気を醸しだしていたが、すぐに男性とわかる程度には線がしっかりとしている。女装させて化粧を施し、まけにまけて色眼鏡で見たのならば、なんとかボーイッシュな女性に見えなくもない……かもしれないが、やはり女装少年とわかるだろうか。
 祐一は鏡に映った自分の顔をじっと見つめる。
 ベリーショートの黒髪に同色の瞳、きゅっと引き締められたくちびる。それが小さな顔に収まっている。そこまではいい。ほっそりとしたおとがいと柔らかな頬が、唯一と言っていいほど少ない男性的な線を崩し、それはまるで女性のような造りになっていた。生来の目つきの悪さと、女性と比べればやや高い身長の祐一、これでは男装の麗人と受け取られても不思議ではない。
「ひとの顔ってのは一年やそこらで変わるもんなんだな……というか女顔にさらに磨きがかかってるぞおいこら」
 あごに手を当てて鏡をのぞく祐一。そこに若かりし頃の母親の面影を微かに感じて、どこかこころが優しくなったような気がする。
 色褪せたアルバムに、それをひろげて楽しそうに昔を語る母の姿。祐一はのどの奥が痛むのを感じた。――やはり、少しばかり悲しい。
「……まあ、母さんに似てるのは、悪い気分じゃないけど。親父は遺伝子まで尻に敷かれてるのか……超劣勢?」
 目つきの悪さは父親譲りなのだが、それがなければまるきり女性と言ってもおかしくない造形のため、そこだけは感謝しても良いかもしれない。
「まだ成長期なのか、俺? ……ううん、それにしても……変わりすぎのような……? い、いや、まさかな……」
 あり得ないとは思いつつも、両手をそろそろと胸へと伸ばす。
「お、女に……は、はは……さすがに、それは、なあ? ……ま、魔王の呪い? あり得ないあり得ない!」
 ――ふに。
 という感触は幸いにしてなかった。
「あはは……あははははっ。いやあたりまえだろ! どこをどうやれば女になるっつー話しだよ! あはははは!」
 胸をわしゃわしゃと揉みながら安堵の高笑い。端から見れば不気味な光景である。
「ははははは……はあぁぁぁ……ビビらすなっつーの」
 祐一はため息を吐き、はじめの目的である入浴のために服を脱ぎ始める。シャツのボタンを外すと、薄い胸板が視界に入り、再び安堵のため息。ズボンもさっさと脱ぎ捨てる。
「う……なんかエロい……」
 なまじ綺麗な顔をしているだけに、鏡に映ったそれがどうにも自分のものだとは思いにくかった。祐一は調子に乗って胸を隠して科を作ってみるが、なにやら凄まじい色香に自分で頬を染めてしまう。恥ずかしいまねを、と羞恥に赤くなったほうがまだましだろう。
「あっはっは。なにを血迷っているんだ、我が息子よ。びっくりするじゃないか」
 ぴくりと僅かに反応してしまった愚息に祐一の叱咤の声。
「……これからはもう少しこまめに鏡を見ることにしよう。また見ないでいたら今回みたいにビビるし……つーか親父、もっと頑張っとけっての」
 生命の神秘に頑張るもなにもないだろうが、祐一はいまは亡き父の母に対する態度に嘆息をもらす。かかあ天下とでも言おうか、まあ、実に立場の低い父親だったなあ、と。
「……まあ、そんなことはどうでもいいか。とりあえずシャワー浴びて汗流そ」
 言いながら祐一は浴室に入り、いくらもしないうちに出てくる。不快感さえ無くなればそれで十分だと考えているため、祐一は入浴にさして時間をかけない。一通りからだを流すだけだ。まあ、赤錆だらけの水を浴びて「なじゃこりゃぁ」とわざわざ野太い声を出してふざけていた分だけ、少々長風呂であったとは言えるだろうか。
 水を弾くようなつるんつるんの肌をバスタオルで拭き、ぺたぺたと素足で寝室まで歩く。クラタは灯火の恩恵が十分に行き渡っているため、多少の薄着でも寒いとは感じない。祐一はいつものごてごて重装ではなく、薄手のパンツにタンクトップという軽装だ。
「あー、そういえば武器の点検もしておいた方がいいか。ここに来るまでだいぶ酷使したからなぁ……」
 そう呟いて、ベッド横の棚に置いてあるベルトに手を伸ばす。十字に交差した二本の短剣と、遊底を合わせて対称になっている二丁の銃、それがベルトに固定されたホルスターに収まっている。
 祐一はいつも短剣と銃のふたつの武器を使っている。短剣はディフェンサーという防御に長けたもので、分厚い刃と背にある刃受けが特徴だ。銃は自動空薬莢排出機構を備えた工房の特注品。異形に対抗するために大口径となっており、その威力からこの銃は『カノン』と呼ばれ、対異形警備隊の準装備品に指定されている。
 対異形用の装備品には大剣や槍もあるが、祐一は短剣と銃のふたつを愛用していた。祐一の持論は『異形に剣じゃ自殺行為だぜ』である。大剣を振り回して異形と戦うようなランク持ちは、それこそ伝説や伝承の中の英雄ほどの力がある者だけだろう。広い場所では魔術や銃が有効であるし、狭い場所では剣を振り回すことはできない。それでもまだまだ剣こそ至上の武器と崇める偏屈も多い。
 剣の届く間合いは、異形にとっては必殺の距離でもあるのだ。その必殺の一撃を防ぐのがディフェンサーであり、近づかせずに狙い撃つのがカノン、それが祐一の戦闘様式だった。魔術もあまり得意ではなく、純戦闘力の高いとはいえない祐一が、出国許可証であるランクの甲種第4類を取得できたのは、そのスタイルがあったおかげだ。
「……すこし刃こぼれしてるな。弾も少なくなってるし、工房に頼んどこ。……あ、そういえばクラタの工房の場所知らんぞ? ……いや、それは聞けば分かるか」
 ぶつぶつと独り言を言いながら点検をする祐一。そのきれいなくちびるが少しばかり微笑みの形を作っていて、やや気味が悪い。
「ま、しばらく使う用事もないし、時間見つけて頼みに行けばいいや。とりあえず借りてきた本読まないとな……」
 祐一は点検を終えた短剣と銃をホルスターに戻して壁に掛けると、テーブルに積んである本から一冊取り出し、ベッドに寝ころびながら広げた。
 その本は神々が栄えていたころを描いた神話だ。神々の戦から千数百年もの時が過ぎている現在と、そこに書かれている内容は、まるでかけ離れた世界が広がっている。
 片や闇に支配された冷厳な世界。片や光と闇の入り交じった壮麗な世界。
 遙か昔は美しかったであろうこの世界は、神の戦のとばっちりで光が失われた。そしてかつては光があったことすら人々は忘れてしまっている。闇に閉ざされた世界が当たり前だと思い、文句のひとつも言わず、天蓋都市の中で一生を終えるのだ。
 この世界に住む人々は、いまの世の中に不満を感じていない。当たり前の世界で、普通に人生を送る。ただそれだけだ。どんな世界でもそれは変わらない。
 祐一もこの世界に不満があるというわけではない。いままで不自由なく人並みの幸せを感じて暮らしていたし、これからもそうだろう想像していた。しかし、両親の遺した手記を見つけたことで、いままで目的もなくだらだらと好き勝手にやってきた人生に、多少の方向性を見つけることができた。だからこそ、こうして生まれ育った国を離れ、祐一は旅へ出たのだ。
「そう簡単に見つかるとは思ってないけど、そもそも資料として残ってるか疑問だよな……いやまあ、手がかりほぼゼロなんだし、やらないよりはマシだろうけど」
 ぱらぱらとページを読み進めながら呟く。
「……あっちのみんな、今頃なにしてるかね……。挨拶しないで出てきたから、文句言われそうだな。特に香里と名雪……あと秋子さん、は、無言のプレッシャーが怖い。……とりあえず、いまは考えないようにしよう」
 ごろんと仰向けになり、読んでいた本を戻して次に取りかかる。
「えーと、タイトルは『神々の大戦に於ける失われたものと得られた技術』、ね……」
 祐一はぱらりと本をめくる。
「あー……『お願いします先生』彼女は懇願する。『もう我慢できないんです……お願いです、先生、もう、私は…』ぎゅっと小さな手を握りしめ、耐えられないほどの苦しさに顔をゆがめる。『しかし……』『だめなんです、もう、ひとりでどんなにしても、だめなんです! 先生じゃないと!』『――わたしは教師で、君は生徒だ。そんなこと、できませんよ』『耐えられないんです……前は先生のことを考えるだけで幸せだったけど、でも、それじゃもう耐えられないんです! 少しだけでもいいんです。一度だけで、それだけでいいんです!』そう言ったきり彼女は押し黙り、俯いて肩を震わせる。『……わかりました。一度、だけですよ?』『せ、先生……』歓喜に咽ぶ女生徒の頬を、先生と呼ばれた女は優しく撫でさする…………ってなんだこりゃ……」
 内容がとてもとても一般受けしそうにもないものにすり替わっていた。カバーをめくってみると、そこに書かれていたタイトルは『放課後の彼女と彼女の先生』。
「………なんでやねん」
 とりあえず突っ込む祐一。誰かの悪戯だろうが、なぜよりにもよって成人指定を受けそうな書籍にすげ替えるのだろう、と思いながら祐一はため息を吐く。
「やる気削がれた……気分転換に行くか。ついでに工房にも寄って……。……?」
 下半身に違和感を感じて、もぞもぞとベッドの上で動く祐一。なにやら”据わり”が悪い。
「……小便」
 小用のために微妙な感じを受けているようではあるが、祐一は据わりの悪さが気になって仕方がなかった。特殊な分野に特化した文章を読んで、御子息がすくすくと育ちつつあるのも原因のひとつであろうか。
 どうにも、あるべきところにあるものが少し足りないような、そんな気分だった。
 ばたん、と便所のドアが閉まり、数秒。
「ぬおあーーーーーーー!? 玉があぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーー!?」
 裏返った祐一の声が、『赤猪亭』に響き渡った。





09から12のまとめ。
サブタイは「雪路は続くよどこまでもの巻き」「うぉーきんざぱーくの巻き」「母(の遺伝子)は強しの巻き」「放課後の彼女と彼女の先生の巻き

まあ、暇な方は各話そのいち〜そのよんのあとがきでも読んでみたりするのもよろしいかもしれなくもない?
ちなみに、カノンの綴りはkanonでもcanonでもなく、cannonであります。



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