グリップを手前にひねると、低く唸るような音が響く。 襟と袖口を毛足の長いファーで縁取った皮のジャケットを羽織り、ごてごてとバンドやポケットの付いた実用一点張りのパンツで身を固めた祐一は、『工房』に作成を依頼していた超低空浮遊型高速艇――飛龍の試運転のため、天蓋都市の蓋門前でその準備を行っていた。 飛龍はなめらかな曲面で構成されている。先端から後方に向かい大きく張り出した風避け、後部に大容量の荷物入れ。中央はぐっとくびれていて、そこにまたがり、左右に伸びる手元のグリップと足下のペダルで様々な操作を行う。高速艇の名の示すとおり高い機動性を誇る魔導機だが、使用環境が限られるため、一般に出回ることはないだろう。 「ふむむ。なかなかの仕上がり。結構いい仕事してるな、工房のおやじも」 座席にまたがり出力を上げると、飛龍の頭を軸にぐんと反転する。降り積もったばかりの雪が巻き上がり、蓋門から漏れる陽光にきらきらと舞う。 「反応も申し分ない。乗り心地もよし」 さらにその場でぎゅうんと二回転。 「それじゃ、ま――お仕事に参りますか!」 出力が一気に限界まで吹き上がり、機体の後方にど派手に雪を舞い散らせ、天蓋都市からぐんぐんと遠ざかっていった。 祐一はのちに語る。 調子に乗ってると痛い目に遭うのは、それはもう必然なんだよなぁ、栞もそうだったんだし、と。 がらがらと鈍色の鉱石を飛龍のリアトランクへ流し込む。 「少し遠くに来て正解だな……やっぱりこの辺はまだ手が付いてない。これからはここで取ることにするか」 未だ大寒波の時期ではあるが、数日だけ寒さと風のの穏やかな日がある。寒波の切れ目と飛龍の納入が重なり、これ幸いと祐一はこうして鉱石探しに精を出しているわけだ。 鉱石は製錬すれば良質の金属として、精製すれば高純度の魔力結晶として使うことができる。特に結晶は灯火の維持にも必要不可欠な要素であるため、ギルドからも定期的に鉱石採集の依頼が出されている。また、魔導機も結晶を燃料として動いている。祐一にとってはむしろこちらの方が重要だ。 祐一は飛龍に寄りかかり、腰元からスキットルを外す。 「いつもは荷車引いて近くで掘るだけだからなぁ……。一回での量は減るけど時間は結構短縮できるし、結果的に取れる量も増えるか。しかも自分で引かなくても動くっつーのがありがたい。……これからもよろしく頼むぞ、相棒」 ぽんぽんとシートを撫でながら、スキットルに口を付ける。中身はやや度数の高い酒だ。琥珀色の液体が喉を灼きながら落ちていき、胃を中心としてじんわりと体温が上がっていく。 「やっぱ寒いときはこれだよなぁ……、うまい、あったまる、一石二鳥てやつ?」 きゅ、と蓋を閉め、スキットルを腰のバンドに挟み込む。 「さて、続きをやるか」 ランタンを手に持ち、再び作業を再開する。 飛龍は採鉱場から10ヤーほど離している。採鉱場が崩れて埋まってしまっては意味がないため、多少不便ではあるが飛龍を離れた場所に置いているのだ。 「……ん?」 使えそうな鉱石を漁っていると、からからと小石が頭上から落ちてくる。 こりゃ崩れるか、と祐一は腰を上げて飛龍のところまで戻ろうとしたとき、 ――鉄錆くさい匂いが鼻先をかすめた。 「ぐうっ!」 腰の後ろに交差して装備している二本のディフェンサーの一本を左手で抜き取り、振り向きざまに眼前へかざす。甲高い打ち鳴らしの音と青白い火花が散る。 祐一が受けたのは、鋭い爪を持った異形の腕だった。 それを認識するよりも早く、祐一はディフェンサーと重ねるように装備している二丁の銃のひとつを右手で抜き、放つ。 轟音と共に異形の脇腹が吹き飛ぶ。祐一は一端退こうと後ろに跳び――異形の追撃に吹き飛ばされ、そのまま飛龍と盛大な再会を交わす羽目になった。その衝撃にバチンと不吉な音を立てて飛龍の照明が消える。 「ぐえ……きっつー……」 ここまでの道のりは飛龍のナビシステムに頼っているのだ。もし飛龍が起動しなければ、最悪自力で帰還するしかないだろう。 愚痴をこぼしながらディフェンサーを戻し、二丁の銃で異形へと対峙する。絶え間なく放たれる必殺の威力を持つ弾丸に、さすがの異形もその命を削られていく。 異形は手負いであった。祐一の初撃がなくとも死は避けられなかっただろう。それでも紅い瞳を爛々と輝かせ、残り少ない命の炎を燃やし尽くさんばかりに祐一へと向かっていった。 『口惜しい……守護聖霊めが……』 「なに言ってやがる」 『にんげんよ……強いな。貴様に敗れたとあれば我がたましいも満足だろう……』 「勝手に満足しとけ!」 異形へと銃口を向け、引き金を絞る。が、かちりと小さな音を立てるだけで銃弾は放たれない。既に予備も撃ち尽くしている。祐一はひとつ舌打ちをして銃を戻し、両手にディフェンサーを握る。 『我が名は業魔王アレキアレイアス。にんげんよ、我が命の輝き、とくと見届けよ……』 業魔王と名乗る異形は白雪を散らしながら祐一に向かって跳ぶ。闇よりもなお濃い暗黒の翼を広げ、煌々と瞬く深紅の瞳で祐一を睨み、強靱な凶爪を突き出す。 祐一は逆手に持ったディフェンサーを横凪に払う。その背に刻まれた幾つもの刃受けで異形の爪をからめ、へし折る。 ディフェンサーは守るための武器だ。刃は厚く、肘から手首ほどの長さを持ち、背にはぎざぎざとした刃受けを持っている。その効力を十分に発揮し、祐一は相手の武器のひとつである爪を奪うことができた。そして爪を失った腕へとディフェンサーを振り下ろす。 ――ぎぃん! 祐一の斬撃は異形の纏う装甲を割り、骨にまで達する深い傷を与えた。分厚い刃は多少のことではびくともしない。十分な力を乗せれば、鉄すらも紙くずのように切り裂く。 どぶ、と紅い血が溢れ出す。 『――見事なものよ。手負いとはいえ、魔王の名を預かるこの身を、こうも易々と……』 「げえ……魔王かよ。万全だったらぜってー俺死んでるぞ」 『ふ……闇の恵みに感謝するがいい』 「……ああ」 異形は祐一の返事を聞いて仰向けに倒れる。純白の雪は鮮血に染まり、禍々しく闇に映える。 『にんげんよ……礼を言う。つわものとの戦いの中でたましいを還すことができる……』 「おまえが襲ってきただけだ、ばかもの」 『それでもだ。守護聖霊などに敗れたとあっては、輪廻へ還る事もできぬからな……』 ――守護聖霊? 祐一は聞き慣れない言葉に疑問を覚える。 『では……我が死を以て、継承の儀、了とす』 「継承? なんだそれ」 『魔王を討ち滅ぼし者、魔王の名を継ぐ。それが我らのさだめだ……』 「あ゛? 俺は魔族じゃねえぞ! っておい!」 『にんげんに我が名を預けるのもまた一興……。これからは業魔王を名乗るがいい、我らの一族も場合によっては手を貸してくれるやもしれん』 「んなもんいらねー!!」 『生きていれば、またどこかで逢う事もあるだろう。そのときは、にんげんとして、再会してみたいものだ。――叶わぬねがいだろうが、な』 「いやおまえ死ぬし。もう会うこともねえよ。叶わねえよ」 『業魔王の名と我がたましいに、闇の加護を――』 その言葉を最期に、異形はまぶたを閉じる。 同時に祐一は胸に違和感を覚えた。 「……なんだ?」 ばしゅうん!! 「熱ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」 まるで焼きごてでも押されたかのような灼熱感。 祐一は上着を全てはぎ取り、寒さも無視して雪の上に転がった。 「あちい! あっちい!! 死ぬ!! 死ねる!!」 全身雪まみれ。それでも熱は引かず、いまだ燻り続けている。祐一は、あんちくしょうなんちゅう置き土産を、と心の内でぼやく。 どれほどの時間雪に胸を押し当てていたか、酒と戦闘の興奮による火照りも冷め、胸の痛みもなんとか収まってきたようだ。からだを起こして自分の胸を見てみると、そこには異形の翼をかたどった闇色の痣が浮き上がっていた。 『継承の儀』などという得体の知れないものを受けたのだ、どこか異常はないか自己診断するが、特に変わりは見られない。もしや呪いかと祐一は思ったが、それらしいものもない。唯一変わったのは胸の痣だけだ。 「まさか……ほんとに魔名の継承だけか……」 魔名とは魔族の持つその個体の別称のようなものだ。つまり祐一はひとでありながら魔名を持つ変わり種となったわけだが、その存在はあくまでひとだ。 魔王という称も、基本的に自己申告制である。しかし魔族は己の力量に見合うだけの称を名乗ることが義務感として存在する。時折偽って魔王と名乗る者も現れるが、そういった小者は粛清されるのがおち。 「せっかくなんだから魔力を受け継ぐとか魔王的なパワーを身につけるとか自分でも気付かなかった潜在能力に覚醒しろって話だよ……」 簡単な話、名前を貰っただけだった。 それだけのために悶え転がったのだから、どこにもぶつけようのない怒りがふつふつと沸いてくる。ふふ、と昏い微笑みを浮かべ、祐一は脱ぎ散らかした服を再び身に付ける。それは雪に晒されてとてもとても大変なことになっていたのだが、当の本人は全く気にしていない。 祐一はスキットルの中身を一気にあおり、やけくそ気味にその場をあとにした。紅く染め上げられた雪のしとねに横たわる、かつては魔王だったものに目もくれず。 それよりなにより、ここから帰ることができるのか、そのことの方が祐一にとっては問題である。いやな火花を散らせてたたずむ飛龍を見ながら、少しくらい酒残しといたほうがよかったかも、などと考えていた。 「あー、死ぬかと思ったー……」 店舗兼自宅である『白い兎亭』のドアを開けながら祐一はひとり呟く。幸い飛龍の被害は外装とコードの断線だけという軽微なものであった。応急処置でコードをつなぎ合わせ、騙し騙し運転しながらなんとか天蓋都市まで辿り着き、飛龍はそのまま工房へとんぼ返り。実に短い付き合いだった。次に出会うときは強化外殻装で覆われた飛龍改であろう。 「修理費はたいして掛からないのはありがたいが、しばらく乗れないのは痛いなぁ……」 祐一は寒波の穏やかなここ数日の間に飛龍を使って荒稼ぎを目論んでいたのだ。結局妙な異形の出現で計画の破棄を余儀なくされたが、そこは新生相沢祐一、魔王のごとく真面目に働くことを決心した。 「さあてと、しばらく店閉めるし、準備でもしますかな」 早速ブッチ。 「実入りのいい仕事……はやっぱりギルド関係だよなぁ……」 さらさらと白紙に文字を書きながら祐一は考える。 この『白い兎亭』の収入というのは、さして多くない。しかし普通に生活していく分には十分事足りる利益は上げているし、経営者である祐一自身も、それに不満は全く感じていない。 ただ、予定外の出費などによる赤字分を埋めるために、時々ギルドへと足を伸ばすわけだ。 「……直接行ってから探すか」 紙を片手に外へ向かい、ドアにぺたりと貼り付けた。 「準備完了。……さ、仕事探してこよ」 祐一はがしがしとあたまを掻きながら、ギルドへ向かい足を進める。 裏路地のような細い道を少し歩くと目抜き通りへと出る。ギルドは都市中央に位置する巨大な建物、そこで多種多様な業務を行っている。国民の生活はギルドで成り立っていると言ってもいいだろう。 目抜き通りは様々な商店・露店が立ち並び、常に活気に満ちている。祐一はそのどれにも立ち寄らず、さっさとギルドへと向かっていった。 大仰な門をくぐり、迷うことなく業務委託部門へと進む。 「よっ」 「あ、祐一〜」 受付にいたのは水瀬名雪。祐一の友人のひとりだ。 「最近来ないから心配してたよ」 「そうか。それはすまん」 「まあ、いいよ。それで、今日はどうしたの? あっ、で、でーとしてくれる気になったの?」 「あほ。私用でここに来るか」 「……残念」 がっくりとうなだれる名雪嬢。 「えーと……それじゃどのようなご用件で?」 どんよりと曇った表情のまま営業スマイルを浮かべておざなりな対応の名雪。とりあえずそれは無視しつつ祐一は用件を告げる。 「手っ取り早く大金の手に入る依頼」 「わ、だめなひとの見本みたいな物言い。俗にまみれてるね、祐一っ」 ずばごっ 「いだっ。……う〜、ひどいよ、ゆういちぃ」 「どっちが。いやそうじゃなくさっさと依頼書よこせ」 「う〜……」 名雪は唸りつつもてきぱきと書類を分ける。 「とりあえず上から三つは、新薬の被験者かっこ事前に誓約書にこれは自己責任による投薬であ」 「ちょっとまて」 「え? まだひとつ目だよ?」 「……条件の再指定をする。どんなにきつくてもいいから短期間でうはうはな依頼」 「いまどきうはうはっていう表現はちょっとアレだと思うよ」 ずばごっ 「〜〜〜〜っ!」 「いいからさっさとしなさい」 「わ、わかったよ……」 ぶちぶちと文句を言いながらも、名雪は手際よく条件に合う依頼書をより分ける。いつものんびりとしている彼女ではあるが、やはりというべきか、それで当たり前と思うべきか、手付きと判断はなかなかにいい。 「え……と、とりあえず短期の依頼で高報酬のはこれくらいかな……」 そう言ってずらりと依頼書を祐一の前に並べる。 「ずいぶんとあるんだな」 「うん、それはまあ、結構あるよ。受けられるひとが限られてるものから、超重労働とか。あとは急ぎの依頼なんかは報酬良かったりするよ。って、祐一、何回もここに来てるんだからそれくらいは知ってるでしょ」 「いや……知らん。俺は本職が自営業だし、仲介でもそれほど特殊なもの捌いてないし」 ぺらぺらと依頼書の束をめくりながら答える祐一。 「そうだっけ」 「そうだよ。っと、これでいいかな」 「あ、学園の講師? そういえば祐一、時々教えてたよね」 「まあ時々。資格もあることだし、なんだか緊急募集とか書いてあるからなぁ。期間も1週間ちょっとだから丁度いい」 「ふうん……、んと、内容は魔術科実技講師、これ受ける?」 「承諾」 「了承、と。気を付けてね、実技講師って結構あぶないから」 「だから高報酬なんだろ。わかってる」 「はい、依頼書。このあとすぐ学園の方に向かってね」 名雪はどでかい判子を押した依頼書を渡す。朱色のインクで丸に了承。……なかなか洒落の効いている判子である。作成者は言わずもがなであろうか。 祐一は依頼書をひらひらと振りながら名雪のいる受付をあとにする。 「が〜んば〜ってね〜」 マイナス方向に頑張れるような名雪の声に、祐一は深く深ーくため息を吐く。 「とりあえず学園の方に行くか」 学園はギルドの北側に位置する区画にあるが、建物はひと続きの大きな館だ。ギルドの運営機関、管轄業務など、ほぼ全てのものがこの建物に収まっている。学園も然り。 祐一は古めかしい廊下を、靴を鳴らしながら歩く。 「あ、せ、先生!?」 「ん?」 前から歩いてきた少女が祐一を見て声を上げる。後ろにいるふたりの少女も同様に驚き、目を丸くしている。学園の制服を着た少女たちに、祐一は見覚えがあった。何度か学園からの依頼を受けたとき、担当した講義にこの少女たちがいたはずだ。 学園は技師育成機関であり、その性質上、入学資格は特に無いといっていい。高い技術を持つ技師は多ければ多いほど歓迎されるものであるし、それに年齢性別その他資格は問われない。従って学園に在籍する生徒は、言葉をしゃべれるようになったお子様から、講師である祐一の何倍も生きているご老体まで、実に幅広い年齢層を受け入れている。 祐一に声を掛けた少女たちも、まだ十にもならないような年頃だろう。 「おお、おまえらか。どうした」 「い、いや、先生こそ!」 「そうですよ、最近来なかったから」 「も、もしかしてまた学園に教えに来てくれるんですか?」 まくしたてる少女たちの勢いに少々引きながら、祐一はそうだよと答える。 「ほんとですか!?」 「やった!」 「それじゃみんなに教えてこないと! 先生、またー!」 少女たちは来た道を走って戻る。 「ろーかは走るなよー」 聞こえはしないだろうが、一応立場上言うだけは言う祐一。 「……さて、学長のとこに行くか」 やや呆れ顔で呟き、再び足を進めた。 「げえ……初日からきついことやらせてくれるよ、あの学長。女王様タイプだな……」 祐一はギルドからの帰り道、そんなことを呟く。 魔術の実技講師というのは、文字通り、命を掛けてやるような仕事だ。 技師には様々な職種がある。それが建築であったり、細工であったり、農であったり、食であったり、薬であったり、魔術だ。とくに魔術技師の重要度は、ほかのなによりも高い。 生命の半分以上が魔術により支えられている天蓋都市では、魔術技師なしに命を繋ぐことはできない。もちろん他の技師もそうではあるが、それは灯火の存在を前提としてのことだ。灯火の維持、鉱石の精製精錬他、その技師育成のために、国家は大金をつぎ込んでいる。 魔術は誰にでも使えるものであり、しかし使えないものでもある。正確に言うのならば、体内の魔術回路を再構築しなければ使おうにも使えない、というところだろう。魔術回路は誰しもが備えているものであり、それを自分で再構築・最適化し、ようやくと魔術の行使が可能になるのだ。この再構築は命の危険が伴うもので、魔力の暴走により周りを巻き込んでの自爆なども起こる可能性がある。そこで講師たちが自身の魔術回路を生徒のそれに繋いで再構築の補助を行うのだが、生徒側の回路制御に失敗すれば魔力の逆流によりえらいことになってしまうため、その賃金と待遇は破格のものとなっている。 祐一の受けた依頼内容は、その補助役と講義、及び実技監督、総合的な技術指導。それが講師の仕事ではあるが、通常は複数の講師により余裕をとって行うものなのだ。素晴らしくハードな内容となっている。どうも本格的な講師の人材不足により、緊急の依頼をギルドに出したらしい。 「あー、なんで講師を受けたはずの俺が、中庭に空いた穴埋めなんてしないと駄目なんだ? つーか誰だよ、炸裂系の魔術暴発させたアホは」 どこかで聞いたような話しだが、結局祐一が今日こなした仕事は、講師とは全く関係のないことだった。 「肉体的に超疲労……異形に襲われて、なんでそのあとこんなことやらないといかんのだ」 本来は手続きの関係で依頼書を持ち込んだその日に講師として働かせるということは無い。無いのだが、どういうわけかやらされている祐一。特別手当に迷いを見せたところが敗因であろうか。 「うぐ……腕が痛い……腰も痛い……」 へこへこと腰を曲げて帰宅の途につく。 祐一は誓う。肉体労働は今後受けないようにしよう、と。 痛む体を引きずってしばらく、『白い兎亭』が見えてくる。少しばかり奥まったところに位置するこの路地は、いつも人通りは少ない。祐一は店舗裏の勝手口から家の中に入り、誰もいない居間に向かって挨拶を投げる。 「ただいま、我が家」 「お帰りなさい、祐一さん」 「…………」 「…………」 「…………」 「……あの、反応してくれないとこっちが恥ずかしいんですけど」 「はあ、それじゃとりあえず。お久しぶりです、秋子さん」 「…………いえ、なんでここにいるのか、とか」 困り顔の女性、名前は水瀬秋子という。姓から推察できるが、名雪の身内である。 「ええと……どうしたんですか? 店の方は閉めちゃってるんですけど、飲みたいんでしたら出しますよ」 「…………あの、祐一さん、わざとですか?」 「はい?」 「……なんでもありません」 「はあ……」 祐一は要領を得ない秋子の問いに生返事。 秋子としては「鍵もないのにどうやって!?」と驚いて欲しかったのだが、祐一はそんな彼女のおちゃめ行為をすかしまくる。 「で、用件ですが、一緒にお食事でもと誘いに来たんですけど……お疲れのようなのでまた今度にしておきますね」 「あ、はい、すいません。今日はちょっといろいろありすぎたんで……また誘って下さい」 秋子は祐一の言葉に「それじゃ近いうちにでも」と返事をし、ぺこりと頭を下げて帰ってゆく。 「うむ……相変わらず謎なひとだ」 祐一は呟き、寝室へと足を向ける。 「今日は一日ご苦労様です、自分。……ご苦労様というか苦労そのものだし。あーもう、寝る。寝よう。寝て忘れよう、俺。明日からは店も休み、とりあえず寝溜めしとくか……」 ばふんとベッドにダイブする祐一。あ゛ー、とひとつ唸ると、よほど疲れていたのかそのまま眠りへと落ちてゆく。 相沢祐一。若いながらになかなか気苦労の多い人生を歩んでいるようであった。 |