世の中にはどうしようもないことがいくつもある。
 たとえば、天蓋都市の外に住むこと。
 たとえば、絶え間なく降り続ける雪を止ませること。
 たとえば、この世界がどのような形をしているのか調べること。
 たとえば、世界の果てになにがあるのかを確かめること。
 たとえば、風呂に入らないと感じる不快感のこと。
 最後の例えが一気にグレードダウンしているのは否めない事実だが、祐一にとってはそれが一番どうしようもないことだったりするのもまた事実。祐一がクラタの街に来てからもう数日にもなるが、いまだシャワーすら浴びていなかった。汗をかくほど暖かくもなく、厚着をするほど寒くもない、実に心地良い気温を保っているこの一帯。祐一は冷水で頭を流す程度で済ませていたのだが、しかしそろそろからだがむず痒くなってきた。
 祐一が世話になっている酒場『赤猪亭』は、個室毎に風呂も設置されていた。『白い兎亭』では共同の風呂がひとつあるだけだ。贅沢なことを、と祐一は思ったが、実際にそこをみてため息を吐く。
 使われた形跡がない。率直に言えば、汚い。
 掃除の後も見られないことから、店主も放置しっぱなしなのだろう。確かにここを利用するほとんどは酔いつぶれた客だ、風呂に入るようなこともしない。たぶんそれが分かっていたからこそ、『白い兎亭』前店主である祐一の両親は共同にしたのだ。
 浴室の隣、脱衣所もほこりがうっすらと被っていた。洗面台はくすんだ白、鏡も曇り用を成していない。祐一はもうひとつため息を吐く。
「少し掃除するか……」
 寝起きで働かないあたまを覚ますのには丁度良い、と祐一は掃除を開始した。
 ぼーっとしていても手は動く。なにを考える必要も無い分、楽なことだ。意識がはっきりしてきた頃には大体の部分は綺麗になっていた。これなら気持ちよく風呂に入れるだろう。
 仕上げとばかりに洗面台の鏡を磨き、汚れた雑巾をぽいと捨てる。
「完了……と」
 あれほど汚かった脱衣所と浴室はぴかぴかと――まではいかないまでも、多少のことに目をつぶれば十分に綺麗になった。……あくまで表側のことではあるが。シャワーのコックを捻れば真っ赤な水が流れてくるだろうし、隅の方にはまだまだ汚れが溜まりまくっている。
「さて、大体終わったことだし、ひとっ風呂浴びるとしますか」
 祐一は洗面台のコックを捻り、手に付いた汚れを落とす。ふと視線を上げると、大きな鏡に映った自身と目が合う。
 ――奇妙な違和感を感じた。
「……しばらく、というか結構な間鏡なんて見てなかったから忘れそうだったけど……俺ってこんな顔だったっけ」
 記憶していた姿とまるで違うものがいるわけではない。たしかにそこに映っているのは自分だということははっきりとわかる。自分の顔を忘れるはずもない。
 祐一の容姿は元々同年代に比べてやや幼さを残していた。華奢なからだも相まって中性的な雰囲気を醸しだしていたが、すぐに男性とわかる程度には線がしっかりとしている。女装させて化粧を施し、まけにまけて色眼鏡で見たのならば、なんとかボーイッシュな女性に見えなくもない……かもしれないが、やはり女装少年とわかるだろうか。
 祐一は鏡に映った自分の顔をじっと見つめる。
 ベリーショートの黒髪に同色の瞳、きゅっと引き締められたくちびる。それが小さな顔に収まっている。そこまではいい。ほっそりとしたおとがいと柔らかな頬が、唯一と言っていいほど少ない男性的な線を崩し、それはまるで女性のような造りになっていた。生来の目つきの悪さと、女性と比べればやや高い身長の祐一、これでは男装の麗人と受け取られても不思議ではない。
「ひとの顔ってのは一年やそこらで変わるもんなんだな……というか女顔にさらに磨きがかかってるぞおいこら」
 あごに手を当てて鏡をのぞく祐一。そこに若かりし頃の母親の面影を微かに感じて、どこかこころが優しくなったような気がする。
 色褪せたアルバムに、それをひろげて楽しそうに昔を語る母の姿。祐一はのどの奥が痛むのを感じた。――やはり、少しばかり悲しい。
「……まあ、母さんに似てるのは、悪い気分じゃないけど。親父は遺伝子まで尻に敷かれてるのか……超劣勢?」
 目つきの悪さは父親譲りなのだが、それがなければまるきり女性と言ってもおかしくない造形のため、そこだけは感謝しても良いかもしれない。
「まだ成長期なのか、俺? ……ううん、それにしても……変わりすぎのような……? い、いや、まさかな……」
 あり得ないとは思いつつも、両手をそろそろと胸へと伸ばす。
「お、女に……は、はは……さすがに、それは、なあ? ……ま、魔王の呪い? あり得ないあり得ない!」
 ――ふに。
 という感触は幸いにしてなかった。
「あはは……あははははっ。いやあたりまえだろ! どこをどうやれば女になるっつー話しだよ! あはははは!」
 胸をわしゃわしゃと揉みながら安堵の高笑い。端から見れば不気味な光景である。
「ははははは……はあぁぁぁ……ビビらすなっつーの」
 祐一はため息を吐き、はじめの目的である入浴のために服を脱ぎ始める。シャツのボタンを外すと、薄い胸板が視界に入り、再び安堵のため息。ズボンもさっさと脱ぎ捨てる。
「う……なんかエロい……」
 なまじ綺麗な顔をしているだけに、鏡に映ったそれがどうにも自分のものだとは思いにくかった。祐一は調子に乗って胸を隠して科を作ってみるが、なにやら凄まじい色香に自分で頬を染めてしまう。恥ずかしいまねを、と羞恥に赤くなったほうがまだましだろう。
「あっはっは。なにを血迷っているんだ、我が息子よ。びっくりするじゃないか」
 ぴくりと僅かに反応してしまった愚息に祐一の叱咤の声。
「……これからはもう少しこまめに鏡を見ることにしよう。また見ないでいたら今回みたいにビビるし……つーか親父、もっと頑張っとけっての」
 生命の神秘に頑張るもなにもないだろうが、祐一はいまは亡き父の母に対する態度に嘆息をもらす。かかあ天下とでも言おうか、まあ、実に立場の低い父親だったなあ、と。





変則的アプローチ序の章。まだまだ続くぞっ。

次パートにてアンケート結果は反映されることでしょう。
いやもうここまで書いたら予想つきますか。そうですか。

ちなみに私は、純粋な女性化が好きなんですけどね。いや女性化に純粋もなにもないでしょうけど。
実際書くと月に〜とかしろいろのこころみたくなるんですが…なぜに?