螺旋の邂逅
 
 
 
 
 
 俺の体は、多分、心と一緒に壊れたんだと思う。
 ――7年前の冬に、あの場所で。
 人よりも成長が遅いと言われはじめたのは、それから2年ほどしたときだ。
 あまり背が伸びなくなった。まったく伸びていないというわけでもないから、別に気にすることでもなかった。けれど、やはりおかしいのだろう。周りの子は、成長期ということもあって、ぐんぐん背が高くなっていくのに、俺だけは変わらない。並び順は常に一番前だし、同年代どころか、下級生の女の子にも負ける。
 小6にもなれば、大きいやつで160cmを越えるのも出てくる。だというのに、俺は140cmにも届いていない。それがイヤだということでもない。体が小さいというのは、それだけで周りから優しくしてもらえる。保護欲を誘うのだそうだ。特に女性がその傾向が強い。もちろん男性もそうではあるけど、女性の方が強いというのが、俺の経験だ。
 どうやら俺の体は、ちょうどいい大きさらしく、よく抱き付かれる。かるく覆い被さる感じで、腕も使って包むように抱ける大きさ。ひとは肌を合わせると安心する生き物だ。だから俺はそれが好きだった。女性はいい匂いもするし、時々、俺から抱いてとせがんだりする。大抵の女性は快く引き受けてくれた。
 中学生になって、ようやく背が伸び始めた。それでもまだ、同い年の小さめの女の子とあまり変わらない。そのせいか、というより、女か男かよくわからない顔のせいもあるだろうが、女の子とは仲良くできた。見た目が女っぽい俺には、同年代の男より気兼ねなく話し掛けられるようで、よく相談事も持ちかけられる。自分よりも小さい男にそういったことを言うのも恥ずかしいらしいけど。
 
 
 
 
 
 夏も顔をのぞかせてきた春の夕方。俺は商店街を歩いていた。
 部活は既にルーチンワークとなっている。好きで始めたことでもない。惰性と義理。ひどくつまらない。目指すものもなく、目標とするものもない。続ける理由はないが、特にやめる理由もないから、いまだにずるずると引きずられている。これでそこそこの実力を持っているのだから、努力しているやつにとってはたまったものではないだろう。こういう才能は、俺じゃなく他のやつにあるべきなのだ。
 俺の趣味のひとつに、音楽鑑賞という、実に一般的すぎるものがある。今商店街に足を運んでいるのも、なにかいいものが無いかと探すのが目的。それも達成され、俺は少しばかり上機嫌で自宅への道を歩いていた。
 この街は大きな企業が金を落としているということもあり、それなりに豊かな街並みだ。様々な店舗、ビルが建ち並び、人が常に絶えることはない。
 不夜城――歓楽街は財布の紐を緩くする雰囲気を持つ。飲食店の区画は食欲をそそる匂いを振りまき、俺の鼻は今夜はどれにしようかと選別を始めている。
 俺の両親は共働きで、殆ど家には居ない。数日空けていることもざら。家事全般を俺ひとりでこなす羽目になるのだが、掃除洗濯はいいとしても、料理の方はイマイチであったりする。わざわざ金を出して手間暇かけてまずいものを食べるよりは、飲食店で手軽にうまいものを食べた方がいい。そのせいで常に金欠でひーひー言っているのだけれど。時々日払いのバイトを探しては、数日だけ働かせてもらっている。とは言っても、中学生を雇ってくれるところなんてそうあるはずもなく、知り合いが経営している店を、時給400円で手伝っていたりする。好きなときに来い、と言われているので、俺も気楽に小銭を稼げる。
 日も沈みつつあり、街の色は徐々に夜へと染まってゆく。看板が派手に輝き、人も増える。
 ひとつ道を逸れれば、けばけばしい配色の看板がある、いかがわしい区画。いつの世も、こういった場所というのは人の足が絶えることはないようだ。需要があるから供給があるわけで、欲しいと思うやつが大勢居るからこそ、こういった商売が成り立つ。業が深いというか、色欲が旺盛というか、人の欲望は限りがない。もちろん俺はそんな妖しげな道へ行くわけもなく、健全な『表』の街を、今日の夕飯を求めて彷徨っている。
 一軒の居酒屋、俺はその前で足を止めた。中学生が入るにはいささか不健全な、というか、居酒屋というのは酒を飲むところなわけだからほんとうはイカンのだろうけど、この店は軽食をメインに経営しているから、問題ない、はず。
 のれんをくぐり、店内に足を入れる。右に調理場とカウンター、左にテーブルが三組、そして奥に和風な造りの座敷部屋が三つある。漂う匂いも和風的なものばかりだ。魚の焼ける匂い、味噌の匂い、醤油の匂い。実に俺の好みの雰囲気。
 いらっしゃい、と言ったのは年の若い女将さん。着物にたすきと結い上げた御髪、これもまた和風な出で立ち。化粧っ気もないのに、肌は綺麗だし、くちびるもいい形をしている。
 ちょろちょろと店内を歩き回っているのは従業員だろう。着物にたすきと女将さんと同じ格好で、料理を運んだり注文を受けたりしている。こちらもまた日本的な女性。歳は俺より一回りくらい上、二十半ばといったところ。
 店内は食事時だというのに半分も埋まっていない。俺は開いているテーブル席に座り、置いてある手書きのお品書きに目を向ける。焼き魚、揚げ物、煮物、刺身、定食、つまみ……。種類は豊富に、それぞれ数品ずつ書いてある。多すぎて迷う。とりあえず、肉じゃがとアユの塩焼き、ご飯と味噌汁を頼んだ。
 料理が運ばれてくるまで女将さんを眺めていたが、目が合うと微笑んでくれた。母親のようなひとだ。多分カウンター席に座っていたら、坊やどうしたの、とでも言われていただろうか。
 背が伸びてきたとはいえ、よく小学生に間違われている。最近はそれがイヤになってきた。背が小さいのは気にしていないが、小学生に間違われるのはちょっと遠慮したい。制服のおかげでいくらかはカバーできているが、私服の時はしょっちゅうだ。意識して大人っぽい服を選び、ファッション誌を読みあさったり、立ち振る舞いを知り合いの舞踊の先生に習ったりと、涙ぐましい努力をしている。そのおかげで、かどうかはわからないが、この頃は疑問符付きに昇格した。つまり、『え〜と小学生……かな?』だ。……あまり変わっていないという話もある。
 おまたせいたしました、と言って料理をテーブルの上に置いていく。ありがとうと返し、俺は割り箸をふたつに割って味噌汁をかき混ぜる。揚げと豆腐ときざみネギ。口にお椀を寄せ、啜る。ダシもちゃんととってあってうまい。たかが味噌汁と雑に扱われていない。肉じゃがに箸を伸ばし、口に運ぶ。肉は柔らかく、ジャガイモもにんじんも中までよく味がしみている。ちょんと乗せてあるさやえんどうを脇に置いて、肉じゃがをつつく。アユは表面がいい感じに焼け、粗い塩の粒も食欲をそそる。軽くほぐして、添えてあったゆずを搾る。これだけなのに、驚くほどうまい。湯気を立てる白米をかきこみ、食欲を満たす。量はさほど多くはなかったけど、満腹。また来ることにしよう。
 おあいそを済ませ、女将さんにごちそうさまと言って店を出る。またどうぞ、と女将さんは笑顔で俺の背中を見送った。
 外はもうすっかり夜の街。背広姿のサラリーマン、会社帰りのOL、着飾った年配の紳士、軽薄そうな今時の若者。人にあふれているこの街は、俺はあまり好きじゃないかもしれない。個人的には田舎の方が好きだったりするが、利便性を考えればこの街も悪くはない……と思うところもある。しかし、まぁ、俺は人混みが嫌いだというのは、この風景を見てはっきりしている。人に酔ってしまいそうになるから、イヤだ。
 俺は人通りの少ない道を選び、自宅へ続く道を歩く。それでも人は減ることはない。なにせ自宅の近くに大きな店舗がいくつもある。
 ビル街を抜けようとしたところで、なんとなく足が止まった。待ち合わせなどで目印となるような銅像。周りにはカップルらしき男女や家族連れ、はてはいかにもアレなオヤジと女子高生という組み合わせもある。なにが気になったわけでもない。なんとなく足が止まってしまった。
 ……あたたかな風景。俺には縁遠い風景。
 夕食をひとりで済ませるようになって、何年経った?
 漠然とした寂しさ、孤独感。
 俺はその風景から目を逸らす。いつか俺は駄目になるだろう。……そんな予感がするだけだ。別に、俺はまだ大丈夫だ。……まだ、大丈夫。ちくちくとどこかが痛む。
 俺がぼんやりと突っ立っていると、ちょっといいかしら、と声をかけられた。
 振り向いて目に入ったのは、少々気の弱そうなお姉さん。長いストレートの黒髪は背中まであり、小さな顔に縁なしのめがね、ワンピースに薄手のカーディガンを羽織っている。シンプルなその格好がよく似合っていた。歳は二十前半くらいだろか。
 なんでしょうかと俺は応え、ちょっと時間ある? とお姉さんは言う。俺に時間は有り余っている。ありますよと言うと、それじゃちょっとお話ししましょうとお姉さんが言った。どうせ暇だったし、家に帰ってもやることがなかったので付き合うことにした。すぐ近くのベンチに座り、お姉さんは俺の隣に腰を下ろす。この人の動作はいちいちお嬢様を匂わせる。習い事が既に染みついているんだろう。俺もこのくらいにならないといけないな。
 お姉さんは志乃という名前らしい。俺が、それじゃ志野っていうひとと結婚したらしのしのになりますね、と言ったら、そうねぇと言って笑った。しばらく話していて、俺の歳を聞いてきたので答えると、志乃さんは驚いていた。やはり俺のことを、もう少しばかり下の子供だと思っていたようだ。志乃さんは少し悩んで、まぁいいかと微笑んだ。なにがよかったのかはわからないが、まぁ、ひとつ誤解が解けたのでよしとする。
 30分ほど話し込んで、それなりに親しく接するようになった。学校のこと、友達のこと、少々踏み込んだ家庭の事情のこと。俺の容姿が幼いということもあって、志乃さんの口調は子供と話しているような感じだ。その志乃さんがそわそわと落ち着かなくなってきた。恥ずかしそうに指を絡め、俯いて言いよどんだり、誤魔化すように微笑んだりしている。どうしたんですかと聞くと、あのね……と声を絞り出し、もう少し静かなところに行かないかと提案してきた。たしかにここは騒然としていて、落ち着いて話せるような場所でもない。いいですよと答え、どこに行きますかと言う。わたしのうちなんだけど、だめかな、と志乃さんは言う。
 俺は少々悩む。初対面の人にほいほいとついて行っていいものか。しかし、まぁ、話していて志乃さんはいい人ということはわかっているし、年上のお姉さんというのは俺の身近に居なかったので、もう少し話していたかった。だめだったらいいんだ……、と落ち込む志乃さんに近くですかと聞くと、勢いよく頷き、すぐ近くだから大丈夫、うちに車もあるから、と嬉しそうにベンチから立ち上がる。わかりました、それじゃお邪魔しますと俺は言い、ご迷惑でしょうしあまり遅くならないようにしますねと付け加える。志乃さんは笑顔のまま、迷惑じゃないから遅くなってもいいよと言った。
 5分ほど歩いたところにあるマンション、その最上階が志乃さんの部屋。このマンションはワンフロアごとに契約している。一階まるまる個人の部屋。つまり、すごく広い。案内された部屋は20畳はあるリビング。
 すごいですねと言うと、そうかなと返す。そして先程の続きを話し始めた。志乃さんの家は、この街でも特に大きな企業らしい。社長令嬢なわけだ。でもよくある箱入り娘とは違うようだ。かなり自由な父親らしく、娘に強制させるようなことはせず、自分の行動には自分で責任をとれという家風を体現している。志乃さんがその辺の女性とあまり変わらないのは、その辺からきてるんだろう。価値観は少々違うが。
 2時間ほど話し込んで、時間もいい頃合いになってきた。俺がそろそろ失礼しますねと話を切り上げると、慌てて押し止める。もうちょっとだけ、あと少しでいいからと立ち上がり、リビングの隅にある棚から細長い箱を持ってきて俺に渡し、これあげるから、もう少しだけと言う。その箱の透明なプラスティックのふたの下にあるのは、あまりにも有名すぎる刻印がある腕時計。中学生の手にしていい代物ではない。それに腕時計はしないから、持っていても意味がない。さすがにこういったものは受け取れませんと断ると、それじゃどうすればいいの、なにか欲しいものある? とまくしたてる。
 俺は志乃さんになにがしたいのか問う。目的があったから俺に声をかけたのだろうし、俺はとりあえずもう帰って寝たかった。邪険に扱うとすぐ泣きそうだったので、なるべく柔らかい言葉遣いでそのことを言うと、志乃さんは、真っ赤になって俯いて、ぼそぼそとか細い声で言う。その、お金あげるから、わたしとえっちしない?
 帰らせて頂きますと立ち上がると、志乃さんは俺の前に回り込んでとおせんぼをする。なんで帰るのと口を開き、すごい恥ずかしいんだからと言う。そりゃ恥ずかしいだろう。初対面の人間にえっちしませんかなどと臆面もなく言えるのは、ちょっとアレな人か、欲望に素直な人か、そのどちらかだろう。どちらでもなさそうな志乃さんは、顔を真っ赤にして俺の前に立っている。
 悪魔がささやく。やっちゃえやっちゃえ。
 天使がほほえむ。据え膳食わぬはなんとやら。
 ……俺の心はこんなにも弱い。
 たしかに俺は女に興味がないわけでもないし、男に興味があるわけでもない。俺は、性に関する欲求が極端に薄い。一度くらいは経験してみるのも悪くはない、という程度でしかない。同年代の友人の性欲旺盛すぎる姿を見て醒めてしまっているというのも理由のひとつだと思う。
 しかし、退路はふさがれ、体格も力も劣る孤立無援の俺にできることといえば、志乃さんを受け入れることしかできなかった。なし崩し的な展開。
 俺の青い果実は、初めて会った年上のお姉さんに、ぱくりと食べられたわけだ。
 
 
 
 
 
 ――それが、はじまり。
 
 
 
 
 
 部活も終わり、俺は自宅へ続く道を歩いていた。
 周りには友人が4名ほど、俺を囲むように談笑しながら付き添っている。どいつも親友と呼べる友人かもしれない。俺がそう思っているだけで、相手はただの話し相手としか認識していなかったら、悲しいことだけど。俺が動くとこの友人達は大抵すぐに気が付き、どこに行くのと話し掛けてきて、俺が答えるとそれじゃついて行くと言うが、それは十分証になると思うんだけど。
 うぬぼれてもいいだろうか。俺には親友と呼べる友人が、結構多くいる。
 友人達はこれからどこに行こうかという話題に移り、ひとりがカラオケにでも行こうかと提案してきた。みんなそれに頷く。もちろん俺も賛成し、既に頭の中ではなにを歌おうかと思案を巡らせていた。
 ちゃちゃん、と携帯が着信を知らせる。俺はディスプレイを確認し、通話ボタンを押す。聞き慣れた声。短かな用件を記憶し、切る。
 誰から? という問いに、バイト先やばいんだってさ、と答える。落胆の声があがる。あんたがいないと盛り上がりに欠けるんだけどな、と友人のひとりが言う。俺は手を合わせて謝り、今度埋め合わせするよと、友人達に別れを告げた。
 ――いつからこんなに簡単に嘘がつけるようになったんだろう。
 いや、あながち嘘でもないかもしれない……でも、隠し事をしているという点では同じだ。はじめは友人達の誘いを断るのは勇気がいった。それが、今ではこうだ。人はなににでも慣れてしまう生き物だとはいうが……こんなことに慣れたくもなかった。
 
 
 
 
 
 目の前の女性は、走り込んだあとのようにはぁはぁと息を吐いている。真っ白なシーツを汗でしめらせ、その上に、桃色に上気した一糸まとわぬ柔肌を晒している。まだ絶頂の余韻を残し、反芻するように情事の内容を思い出しているのだろう。よかったと、その女性がつぶやく。ベッドの横に据え付けてある棚を指さし、そこに入れてるからと言う。俺は手櫛で髪を梳き、身なりを整え、その棚を開ける。中には、数枚の紙切れ。またどうぞと言いながら、その紙切れを懐にねじ込む。しめて3万円也。彼女がまたお願いするわねと言うのを背中に感じながら、俺は部屋を出た。ドアの横に貼り付けてあるプレートにちらりと目を向ける。
 『沢渡』
 いつもそこにはそれだけ書いてあった。外はすでに月に照らされている。
 ――バイシュン。
 割のいいバイトだった。1時間か2時間女性の相手をするだけで、数万の稼ぎになる。はじめは抵抗があったが、半月もすればそれにも慣れてしまっていた。それとは逆に、次第に楽しむようになった。面白いように反応する女の人の体が、なにか新しいおもちゃのように見えてきた。だからといって女性をモノ扱いしているというわけではなく、俺にとっては大切に扱うべき人たちの筆頭だ。それ相応の見返りを貰うわけだから、俺は誠心誠意尽くし、女の人たちを喜ばせようとしている。そのおかげか、一度相手をした大抵の女性は、お得意さまとして何度も指名してくれる。
 志乃さんから渡された携帯電話は、いまではバイト専用。志乃さんもお得意さまのひとりだが、特別に週一回はサービスということでお相手をつとめさせてもらっていた。そのたびに大金か高級品を握らされそうになるが、丁重にお断りしている。どこまでいっても気の弱いお姉さんだ。ショタコンのくせに。
 俺を指名してくれるのは、ほとんどが20代から30代前半のOLや主婦などだ。ときたま同年代や、俺よりも下じゃないかという女の子もいたが、これは少数だろう。好奇心から始まって、どっぷりとはまってしまっている女の子もいる。まぁ……俺の女性第一の考え方が周りの男達と違うらしく、それが忘れられないと言われたこともあった。
 街の明かりが闇色の空を照らす。ひっきりなしに人が吐き出される駅の構内。ざわめきが通り過ぎてゆく。ふと、なんとなしに携帯を取り出す。
 ――ぴりり、と着信を知らせる電子音が鳴った。
 通話ボタンを押し、耳に当てる。聞いたことのない声だ。新規ですねと尋ね、返事を確かめてから、場所とコース(1時間から30分刻みで俺はやっている)を聞く。すぐ近くのオフィスビル――どうやら立場的にかなり上にいる人のようだ。いわゆるキャリアウーマンとでも言えばいいだろうか。携帯を切り、息をひとつ吐く。予約もなかったから受けたが、少々体がだるい。
 目的のビルは5分ほどで着いた。マジックミラーを全面にベタ張りしたような、なんともいえない外観。自動ドアをくぐり、真向かいにあるエレベーターに乗り込む。22階。途中で止まることなく、あっさりと進んだ。言われたフロアは、実にわかりやすい目印がある。
 『社長室』
 などと張り出されてある。社長が勤務時間にこんなことをしていてもいいのだろうか。……いや、あまり人のことを言える立場でもないのだけれど。
 ベルでも付いていないと不自然な感じだが、あたりに呼び出し鈴はなさそうだ。とりあえずこんこんとノックをすると、すぐに反応がある。ドアノブがまわり、中から早かったわねと声が掛かった。
 一言で言えば、美人。付け加えて、妖艶。見た目からすれば結婚していても不思議はないが、指輪もしていないし、人妻という雰囲気でもない。仕事一筋、というのが第一印象。
 はじめまして、ヒロです、と自己紹介をしておく。もちろん本名ではないが、気分的なものだ。ごていねいにどうも、と社長さんが返す。名前は朝霧というそうだ。……そう言えば社名がアサギリなんとかと書いてあったのを思い出す。
 改めて部屋の中を見渡すと、実に殺風景だ。が、過ごしやすそうではある。空調は利いているし、大型のテレビも、プロジェクタもある。一角をしめる本棚は、さまざまな専門書や実用書、それに混じってハーレクインやボーイズな小説がぎっしりだ。
 コーヒーでも飲む? と朝霧社長がカップを持って現われる。すぃと視線でテーブルを差し、座ってと促す。断る理由もないので、俺はソファに腰掛け――というか沈み込んだ。ふかふか。朝霧さんがカップをテーブルに置くと、スーツの胸元からちらりとその豊満な乳房が顔を覗かせる。
 俺はコースの確認をし、はじめますかと聞く。時間が勿体ないものね、と朝霧さんは頷き、いそいそとボタンを外しはじめるが、その手つきはぎこちなく、こういうことが初めてだとわかる。少し緊張しているんだろう。俺は腰を上げてテーブルを回り込み、朝霧さんの隣に座る。ボタンを外す手をそっと撫でて、首筋に軽く口づけ。ぴくりと、肩がはねる。
 時間はまだたっぷりとあるんだから、焦る必要はないんですよ。
 
 
 
 
 
 火照った体を冷やそうと、窓を開ける。ネオンが夜の街を彩り、昼間とはまるで違う顔をのぞかせている。
 昼と夜。表と裏。その二面性は、なにもこの風景ばかりではない。自然も、摂理も、人も。俺はいいひとを演じているわけではない。ただ教えていないだけ。みんなはこのことを知ったら軽蔑するだろうか? 不安が無いと言えば嘘になるだろうけど、俺はこの生活を変えようとは思わない。……いや、変えられない。楽しさを知ってしまった。
 ふに、と背中に柔らかい感触。どうしたの? と朝霧さんが俺を後ろから抱く。胸元に這わせた手が、着たばかりのシャツの中に滑り込む。俺はかまわず、もう時間ですよと告げる。肌を撫でていた手が止まり、朝霧さんは残念そうに息を吐く。そうね、と言い、それじゃまたこんどお願いしようかしら、と俺の耳元で甘えるようにささやく。いつでもどうぞ。そう言いながら窓を閉め、朝霧さん抱擁を解く。
 部屋から出る際にお金を渡され、初回サービスですよ、と言って俺はその半分を朝霧さんに返した。おそらく何度も呼ばれることだろうから、それくらいはいいだろう。最後に頬に軽くキスをするが、背伸びしないと届かなかった。
 
 
 
 
 からだを売り、報酬を得る。そんな生活が染みついて離れなくなる。
 そんなときだ。
 ――両親から、海外出張を切り出された。
 既に話はまとまっていた。俺になんの断りも無しに。いつも、そうだった。来週にも日本を発つそうだが、俺は日本に残るのも決定事項だと。それじゃ俺はここで1人暮らしだな、と言うと、両親は声をそろえて違うと答える。それじゃどうするんだよ、と聞けば、母さんの妹のうちに住むらしい。決定事項だと。
 結局、俺はこの街を離れることになった。お得意さん達には申し訳ないが、まぁ、そろそろ手を引いてもいい時期かもしれない。携帯も志乃さんに返さなければならないだろう。志乃さんは、もしかしたら泣くかもしれない。大人のくせに甘えん坊で、泣き虫で。
 引っ越すとなると、友人達にも連絡しないといけない。荷物もまとめてあっちに送らないとだめだ。やることが山のようにある。
 
 あわただしい1週間があっという間に過ぎ去った。友人達はお別れパーティーと称して俺を連れ回し、お得意さん達にも最後のサービスをした。志乃さんは予想通り号泣。うちに住めばいいよと涙ながらに語る。お金に困ることはないし、学校に行かせてあげるし、えっちだってごにょごにょ、とまぁ、そんな感じで。なんとか説得してはみたが、気の弱い志乃さんに似合わず、今回は粘りに粘った。最後には『わたしも引っ越すからいい!』などと言い出す。しかもそれを実行に移すから始末に負えない。俺がこの街から出る前に、志乃さんはさっさとマンションを解約、ひとりあの街へと旅だった。すでにあっちでマンションの契約も終えていたというのも驚きなんだが……
 まぁ、どたばたはあったが、ようやく俺も荷物を送り終え、一通りの準備はした。バッグをひとつ担いで家を出る。両親が友人らしきひとの車に乗り、行くぞと急かす。
 
 車で空港まで向かい、両親を見送り、そして俺はそこから駅まで送ってもらい、新幹線、電車と乗り継ぎ、長い時間を掛けて、いまはいとこの隣に列んでいる。
 どこか抜けているいとこの少女に懐かしさを覚え、少しからかってみるとすぐにふくれて謝る羽目になった。気を付けた方が良さそうだ。 秋子さん元気か? と聞くと、元気だよ〜、と答える。相変わらず美人さんか? と聞けば、すこしふくれて美人さんだよと答える。
 隣に列んでみると、俺はいとこの少女よりもはっきりと小さい。おとうとができたみたいでうれしいよ〜、などと口走っているが、中身は俺の方が年上だろう、これは。しかし、はたからみれば、姉弟以外の何者でもないのも事実。
 居候先の家が見えてくる。名雪が、ここがわたしのうち〜、と言いながら俺を招き寄せる。ずいぶん立派な家だ。ひとしきり感心していると、玄関のドアが開く。あ、と名雪が声をもらし、お母さん、と言う。高校生の娘がいるのが信じられないほど若く見える。その表情は――驚き。俺は知らず口元がゆるむ。
 久しぶりです。俺はそう言いながら頭を下げる。ついでに、もうひとつ、付け加えて。
 朝霧さん、と。
 
 
 楽しい居候生活になりそうだ――ねぇ、秋子さん?
 
 
 
 
 

一般公開ついでのあとがき

副題「ゆういちくんのいけないアルバイト」
妙に受けてます
実験的にいろいろ書いてみてますが、これは文体からして変わり種
その辺もどうだろうと思うんですが

とりあえずこのあとのことは妄想全開でごー


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SS index 2002/09/30