しろいろのこころ
 
 
 
 
 
 
 奇跡のようなことが、いくつも起きた。
 信じられないほどにたくさんの奇跡が。
 幸せに彩られた日々。
 みんなが笑顔で語り合える日常
 しかしいつしか別れが来るだろう。
 そのときを後悔しないように、毎日を精一杯歩む。
 ――だが、まぁ。
 奇跡には、奇跡と呼ばれるだけのゆえんがある。
 起こりえない事実。ねじ曲げた運命のしわ寄せ。
 たとえどんな不幸が俺の身に降りかかろうとも、いっこうに構わない。
 手に入れた幸せの代償ならば、この俺が、世界から消え去ろうとも。
 
 3年になり、この街での生活も慣れてきた4月の中頃
 いつも通りの日だった。
 いつも通りに学校へ行き、北川や香里達とばかをしあい、帰りに百花屋へ寄る。
 水瀬家に帰れば、真琴とあゆが慣れない料理に四苦八苦していた。
 秋子さんはその様子を見て、楽しみにしてくださいね、と俺に微笑む。
 いつも通りの日。
 いつも通りの団らん。
 その夜、俺は、
 救命救急センターに運ばれた。
 
 
 
 
 
5月2日
 お医者さんに日記をつけてみたらどうかと言われて、これを渡された。
 いつまで続けられるか分からないけど、書いてみようと思う。
 ……でも、真っ白なこの部屋には、なにもない。
 書くことがなさそう。
 既にネタ切れです。

 いま、珍しくお見舞いのひとが来た。
 同室のひとの家族だと思う。
 祐一、わたしだよ、名雪だよ、って言いながら泣いていた。
 あんなきれいな女の子を泣かすなんて、罪作りな男もいるものです。

 おなかが切り刻まれるように痛みだす。
 鎮痛剤とか、よく分からない注射をうってもらった。
 薬が切れるとまたこうなるんだろうか。
 憂鬱。

 「女の子なんだからきれいでいたいよね」
 といって看護婦さんからいろいろ渡される。
 病院で患者が小綺麗にしてどうしろというのですか。
 
 
 
 
  
 鼻の上に丸めがねを乗せた頼りない医師が、カルテを見ながら唸った。
「非常に……非常に希な症例です。話しには聞いていましたが、それはもっと不完全で……ちぐはぐな形でしかありません。私自身見るのは初めてですが、まさかその初めての患者さんとは。……まったく、なんてことだ」
 医師はめがねを外し、目をこすって息を吐く。
 そんなに……そんなに珍しい病気に祐一は……
「……相沢祐一くん……、ええと、お母さんでいらっしゃいますか? ん? 名字が違いますね……」
「はい。姉の子供です」
「そうでしたか。祐一君のご家族と連絡は取れますか?」
「……いえ。できれば既に連絡しています」
 む、と医師の顔が歪む。
 身内を、呼ぶ?
 ――まさか。
「そうですか。……本来ならご家族に知らせるべきなのですが……仕方ありません。水瀬さん……甥御さんは、非常に危険な状態にあります。一刻も早い手術が必要です」
 お母さんの顔が青くなる。
 危険な状態――手術が必要?
「本人の意志を無視してしまう結果になりますが――彼は意識がない。聞こうにも聞けない。今後の人生に大きく関わる事ですが、しかし既に時間がありません。……命こそが最優先事項だと、私は思っています」
 ひゅぅ、と息を飲む音がした。
 ――命。
 聞きたくなかった言葉。
 それほどまで危険な状態になるまで、なにひとつ気付かない自分。
「……名雪、すこし、席を外してちょうだい」
 お母さんが声を絞り出すように言う。
 わたしには、それに従うことしかできなかった。
 いても役に立たない。
 分厚い鋼鉄の壁の向こうにいる祐一に、なにかできるわけがない。
 
 久しぶりに、わたしは、声をあげて泣いた。
 
 
 
 
 
 
5月3日
 朝からお腹が痛い。
 お腹というか……下腹部?
 それに貧血のようにくらくらとする。
 お医者さんにそう言ったら、食後に飲むようにと錠剤(鉄分補給用らしい)を瓶ごと渡された。
 鉄分の錠剤。
 イメージ的にはパチンコ玉。
 
 今日もまた祐一というひとのお見舞いがやってくる。
 昨日の女の人だけみたいだ。
 祐一。そう言ったままだまりこむ。
 祐一さんとやらは眠っていた。
 ずっとずっと。
 
 
 
 
 
 手術室のランプが点灯する。
 わたしはその前に据え付けられていた長いすに身を沈め、俯いていた。
 深夜、薄暗い廊下に落ちる赤い影。
 わたしのあたまにはどうしても拭いきれない恐怖が満ちていた。
 不安。恐れ。――死。
 そんなことはない……否定しても、それはただの思考に過ぎなかった。
 どこまでもつきまとう、最悪のシナリオ。
 ぎゅっと、スカートの裾を握りしめる。
 だめだ……わたしがこんなことでは、祐一が不安になってしまう。
 ぽつぽつと、手の甲にしずくが落ちる。
「あれ……?」
 声がかすれ、それはまるで泣き声。
 じわりと視界がにじみ、頬を涙が伝う。
 なんで泣いているんだろう……
「……名雪」
 そっと、お母さんがわたしの肩を抱く。
「お母さん……わ、わたし……」
 溢れ出す。
 止まらない。
 ――しんじゃいやだよ、ゆういち……
 
 
 
 
 
5月4日
 微熱が続く。
 解熱剤を飲んだけど、あまり効果は見られなかった。
 今日はお見舞いのひとも来なかったし、特になにもない一日だった。
 暇だったので祐一さんとお話しをする。
 ……喋らなかった。
 無口なひと。
 
 
 
 
 
 薄い緑の手術衣に、鮮血が飛び散っていた。
 吐き気を覚える。
 あれは、祐一の、血だ。
「……どう、でしたでしょうか」
 お母さんがお医者さんに聞く。
「そう……ですね。成功、と言って差し支えないと思います。しかしあまり期待させてしまうのはかえって辛いでしょうから、はっきりと言わせて頂きますが……もう、今まで通りの生活はできません。新たな生活を余儀なくされることになります。……それに、メンタルな部分に、大きな傷を負うでしょう。そのとき、彼を支えてあげられるのは……ご家族、ご友人の方だけです。私達は、彼のからだを治すことしかできないのです」
 早口でまくしたてるお医者さんの科白に、お母さんは言葉を失う。
 わたしも、なにも考えられない。
 ――もう、戻れない?
 せっかく助かったというのに……今まで通りに、生きることができない?
「……そう、ですか」
 お母さんの肩が震える。
「祐一さんに……会えますか?」
「いえ、申し訳ないですが、面会はしばらく無理です。現在彼は極端に免疫力が低下し……無菌室でしばらく経過を見ることとなります。ガラス越しであるならば……可能ですが」
「……お願いします」
 
 
 
 
 
5月5日
 明日、また手術をするようです。
 なんとかっていうホルモン剤の注射とか……あとはお腹の中をいじるらしい。
 ……気持ち悪い。
 まぁ、それが手術っていうものなんだけど。
 これで最後らしいから、我慢。
 
 今日は祐一さんのお見舞いに、綺麗な女の人がふたり来た。
 部屋に入ってきて開口一番「あははー」は気が抜けた。
 もうひとりは無口な女の人。
 祐一さんは無言だった。
 
 
 
 
 
「どう、して……」
 無菌室の前で、わたしは壁に背を預けて泣いていた。
「どうして……」
 部屋の中の祐一は、なにひとつ変わっていなかった。
 それなのに、笑ってくれない。
 安心させるように、わたしのあたまを撫でてはくれない。
 冗談めかして『心配かけたな』と言ってくれない。
 どうしようもなく悲しい。
 こころが削られるように痛い。
「祐一……わたし、ほんとうに笑えなくなっちゃうよ……」
 涙が、とめどなくあふれる。
 
 
 
 
 
5月6日
 手術。
 寝ているうちに終わった。
 薬で眠い。
 今日は終わり。
 
 
 
 
 
 暗闇に映える桜の華。
 その命は短く、種類によっては1週間で散り始める。
 窓からいくつも見える桜の木は――おそらく染井吉野――美しく、儚い。
 花の命は短く、咲いたと思えば瞬く間に散ってゆく。
 しかしだから美しいのだと、誰かが言っていた。
「祐一も……きれいだもんね……」
 ばかなことを考えている。
 祐一は、散ったりしない。
「ぜったい……祐一は祐一だもん……」
 窓を開けると、ふわりと桜の花びらが流れてくる。
 もうどれくらいも、木に花は残っていない。
「お花見、してなかったな……」
 肩にかかった薄桃色の花びらをつまみながら言う。
 ――そうじゃない。
 してないんじゃない。
 これからするんだ。
 祐一が退院する頃には桜は散ってしまっているけど……なにも桜じゃなくてもいい。
 香里も呼んで、あゆちゃんも呼んで……みんな呼んで、祐一と一緒に、お花見をしよう。
 近くの公園で、どうせだからお酒も持っていって、みんなで騒いで。
「あはは……たのしそう……」
 ――だというのに、なぜ、
 わたしは泣いているんだろう。
 
 
 
 
 
5月7日
 手術跡が痛むので、鎮痛剤をもらう。
 術後の説明だとか聞かされたような気もするけど、ぼーっとしてて覚えてない。
 まだ太陽は見えているけど、寝よう。
 祐一さんは今日も喋らない。
 
 
 
 
 
 2週間が過ぎた。
 あっという間に、それだけの時間が過ぎていった。
 祐一は、だいぶ前に目を覚ましたそうだけど、まだ面会謝絶は続いている。
 ――会いたい。
 この目で、元気な祐一の姿を確認したい。
 でも、お母さんは祐一の意識が戻ったというのに、あまり嬉しそうではなかった。
 ……やっぱり、なにか問題が残っているんだろうと思う。
『もう、今まで通りの生活はできません』
 いつまでもこの言葉が離れない。
 後遺症。
 でも……たとえどんなになっても、祐一は祐一だ。
「名雪……祐一さんに、会えるそうよ」
 お母さんが、唐突にそんなことを言った。
「ほんとに……?」
「ええ。……今から行くから、準備、してきなさい」
「うん……うん! すぐ準備する!」
 祐一に会える!
 ただそれだけなのに、嬉しかった。
「ただね、名雪……」
「うん? なに、お母さん?」
「祐一さん……」
「……」
「……いえ、なんでもないわ。……あとで、話すから」
 お母さんの沈んだその表情は、いやでもこのあとに待っているだろう事実を、わたしに突きつける。
「祐一……」
 
 
 
 
5月8日
 胸が痛い。
 ちくちくというかびりびりというか、とにかく痛い。
 ナースコールを押して看護婦さんを呼んだけど、『しかたないのよ』だって。
 すこし揉んでもらった。痛かった。
 
 今日も祐一さんのお見舞いが来た。
 鉢植え持ってきたバカがいた。
 あとから来たウェービーなお姉さんにしばかれていた。
 やっぱり今日も祐一さんは喋らない。
 
 お医者さんに聞いてみたいことがあったけど、もう眠くなってきた。
 おやすみなさい。
 
 
 
 
 
 祐一の病室の前。
 真っ白なプレートがかかっていた。
『相沢 祐一 様』
 完全な個室だ。
 お母さんの表情は、ここに近付くたびに重くなっている。
「名雪……」
「……ん」
「祐一さんは……どんな姿になっても、祐一さんよ。それは、覚えておいて」
「……わかってる」
 ノブに、手を掛け、引いた。
 真っ白な壁。
 真っ白な床。
 真っ白な天井。
 真っ白なベッド。
 真っ白なシーツ。
 真っ白な――祐一。
「……ゆう、い、ち……?」
 わたしの声に気付いたのか、顔を上げた。
 白い病院服に、色の抜けたような肌。
 それは、確かに祐一だった。
 ――でも、なにかが違う。
 わたしを見る、その、瞳。
 まるで見たことのない人を見るような、そんな瞳だ。
「……お、母さん……ねぇ、違うよね……祐一、ちゃんと治ってるんだよね……?」
 振り向いたその先には、顔を伏せたお母さんが映った。
 そんなこと……ない、よね……
「祐一、わたしだよ、名雪だよ……ねぇ、祐一……」
「……なにも……覚えて、ないのよ。名雪、祐一さんは――記憶も、失ったの」
 
 
 
「彼のような症例は、殆ど報告されていません。しかも高校生――通常であればもっと早く、こうなっているはずでした。そうすれば、彼は自らの心を閉ざさずに済んだかもしれない」
 祐一の主治医さんの言葉。
「――半陰陽。しかも、完璧な真性です。しかしたとえ真性であっても、あそこまで綺麗なからだをした半陰陽というのは、かなり特殊です。それに……彼の場合、さらに特殊な状態でした。半陰陽には男性型と女性型とがあります。彼は、見かけは男性型ですが……内部生殖器が、男性女性、両方持っていたのです。しかも現在は女性器が完璧に機能しています。……男性器――精巣は存在しますが、これは役割を果たしていません。彼が――彼、というのが正しいか分かりませんが――倒れたのは、いわゆる生理によるものです。が、真性半陰陽というのは通常、膣はありませんし、生理も殆ど確認されません。しかし彼には子宮があり、それが機能し、膣が不完全にしか形成されていない――下品な言い方になりますが、子宮までの穴が開いていないのです。この年齢で生理になると言うのは珍しいですが……なにしろ真性半陰陽という、不安定な土台に彼は生きていますので。ホルモンバランスか精神的なものか……。生理はあっても、その血液を排出するための通り道がない。つまり、お腹の中に大量の血液が溜まってしまったのです。手術をし、膣を作ってそれによる命の危険はなくなりました。陰茎自体は男性として機能しますが……彼が子孫を残す方法は、自らの胎内に命を宿すことしかできません。彼は、女性として生きるしかないのです」
 祐一は、壊れた。
「……しかし彼には耐えられなかった。いえ、たとえ私が同じようなことになったら、耐えることなどできないでしょう。彼は心を閉ざし、新たな自分を作り上げた。……女性としての、人格を。なにも知らない、真っ白な、女性の人格を形成した」
 残酷な言葉。
 唐突すぎる、別れと、出会い。
「それが、現在の相沢祐一なのです」
 
 
 
 
 
5月9日
 祐一さんが、はじめてわたしに声を掛けてくれた。
 辛くなったら、俺に言いな。何とかしてやるからさ。
 ぼそぼそと小声で、あまり元気そうには感じない。
 無口な人だけど、でも、すごく、優しい人。
 
 そうだ。
 お医者さんに聞こうとしたけど、祐一さんは知ってるだろうか。
 お医者さんはなかなか来ないし、少しくらいなにか知ってるかもしれない。
 うん、これを書いたら聞いてみよう。
 
 わたし、だれなのかな、って。
 
 
 
 
 

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