PANON! わたし、水瀬名雪には父親がいない。 だからといって試験管ベビーだとか貰われっ子とかでははなく、正確に言えば物心付いたときには既にいなかった、ということだけれど、それを寂しいと感じたことはない。あたりまえだ。いることの嬉しさも喜びも知らないのだから、寂しいと思う気持ちが育つわけもない。いなくて当然、家族は母とわたしのふたりきり。 ただ、まぁ、ほかの子が羨ましかった時期も確かにあった。 一度聞いたことがある。 「お父さん、どこにいったの?」 それがいつだったかも覚えていないけど、二度と聞こうとは思わなかった。 涙を流し、嗚咽をこらえ、自分を責めるようにわたしを抱きしめる母は、見たくはない。母は強いひとだ。悲しみに涙するなど、想像もしたこともなかった。 わたしのただ気まぐれに聞いたその一言が、母を苦しめてしまった。 それがいまでも心に引っかかっている。 父のことを知りたい。でも、それは母を苦しめるだろうか。 それほどまでに母に愛されている父の一粒種のわたしとしては、やはり興味は尽きない。母はまるで時がゆっくりと流れているかのように若々しく、それすらも父に引きずられているように感じてしまう。これが愛の力というものだろうか。 それとも、悲哀と後悔のせいだろうか。 高校も2年になると、いろいろと考えることが出てくる。 母は幸せなのだろうか。父に操を立てるのもいいのだけれど、しかしそれでは母の幸せはどこにあるのだろう? わたしが生まれてこのかた、母に男の影は見えない。少し考えればわかるが、母が父と結ばれたのはわたしと同じ年代か、少し下だろう。 いわゆる青春時代というものを、このわたしのために消費したようなものだ。わたしは母の再婚に反対しない。母は、幸せになるべきだ。 と思っていた矢先の日曜日の朝食時。 「名雪……お父さんに、会いたい?」 反射的に頷いていた。頷いて、母の言葉がわたしの灰色の脳細胞に染み渡ってからしばらく、叫んだ。生きてたの!? ぶたれた。 「お、お母さん、なにも叩くことないと思うよ……」 死んだなんて言ったことないでしょう、とは言われても、あの母の涙を見て子供心ながらにそう思っていても不思議はないと思います。思います。痛いです。 しかし確かに母は父が亡くなったなどと話したことはない。 「きちんと話しておかなかったわたしも悪いけど……」 母は大きくため息を吐く。 「……いえ、話したくなかっただけかもしれない。名雪、あなたは……あの人の記憶を持っていない。それで、このひとがお父さんよ、なんて言っても……。わたしは、ただ怖かった」 てのひらで顔を覆い、まるで泣きそうになるのを堪えるように言葉を紡ぐ。 「二度と目覚めないかもしれないあの人のことを……教えるのが、怖かった」 「おかあ、さん……」 「あなたに教えれば、あのひとのことが現実になってしまいそうで。真っ白な部屋で眠り続けているあのひとは、わたしの見ている夢なんだって……思えなくなってしまいそうだったから。だから……だから……」 いつかも覚えていない、あのときの光景が重なる。 初めて父のことを聞いた夜。嗚咽を堪える母。あぁ……母は強いんじゃない。ただ、夢を見続けているのだ。 父は夢の世界の住人で、全てを受け止めてくれる――最愛の、幻。 母はそれにすがり、この苦しみだらけの現実を生き続けていた。 「何度も、もう終わりにしようと……あの人の首に手をかけた。でもできない、できなかった……。名雪、お母さんはね、何度も何度も、あなたのお父さんを殺そうとしたの。この手で。あなたを抱き上げた手で。あなたの頭を撫でた手で」 軽蔑するかしら、そう言いながら母は微笑む。 涙が頬を伝う。苦しい。こんなにも思い詰めていた母に気付かず、ただわたしは甘えていた。 「……夢はいつか覚めるときが来る。名雪、もう一度聞くわ」 「うん……」 母はわたしの頬を撫でる。父の首を絞めたその手で、ゆっくりと、わたしのぬくもりを確かめるように撫でる。 「お父さんに、会いたい?」 しんと、まるでここだけが世界から切り離されているかのように、静寂に包まれている。白い、白い、病的なまでに清潔感にあふれた、白亜の牢獄。 広めの室内にはぽつりとひとつベッドがあるだけで、殺風景なものだ。 開け放たれた窓から流れてくる風はレースのカーテンを揺らし、微かな花の香りを運んでくる。 母はベッドの隣に椅子を据え、横たわる青年の手を取り慈しむように指を絡めた。 「ねえ、あなた、覚えてるかしら。まだ生まれたばかりだったわたし達の子供、あなたは嬉しそうに抱き上げて……。もう、16年。こんなに、おおきくなったのよ……」 いつも手入れをしているのだろうか、青年のさらさらと柔らかそうな髪の毛を撫でつけ、母は微笑む。 「夢の終わり。目覚めの時。ただそこには後悔と悲しみと――空虚な日常があるだけ」 「…………」 「名雪、怖い? 気持ち悪い?」 わたしは母の背中を見ながら、こぶしを堅く握りしめていた。知らず、鼓動が早鐘を打ち鳴らす。 「……こんな姿の父親は、いや?」 母はそう言いながら立ち上がる。 ベッドに横たわる青年――そう、青年。あるいはまだ20にも届いていないかもしれない、その幼い寝顔。たとえわたしと同い年だと言われてもなんの違和感も抱かないだろう、その容姿。 母はこの男性をなんと呼んだ? 母ななんと言ってわたしをここに連れてきた? 「おとう、さん……。このひとが……わたしの、お父さん、なの……?」 否定してもらいたかったのかも知れない。母の青年を見る優しい表情、それを見れば聞くことすら意味を持たないというのに。 信じられない。信じたくない まるで――時が流れているのを忘れてしまったかのように眠る父の姿は、わたしにただ恐れを抱かせるだけだった。 広い背中、暖かくて大きなてのひら、甘えさせてくれる父親。そんな、微かな期待すら持っていた自分が滑稽に感じられる。 理想は理想。夢は夢。所詮は現実。 ――ひとつだけ理解したことといえば、 わたしは自分が考えていたよりも『父親』を求めていたということだろうか。 あたたかな家庭。 朝起きて、キッチンには朝食を作る母と、テーブルで新聞を広げる父と、それを見て「おはよう」というわたし。 そんなちっぽけな願いが叶うかも知れないと、わたしは、心のどこかで驚喜していたのかもしれない。そんなものはありはしないのに。もしそんな願いが叶うのならば、母は涙を流さない。 思いの外、わたしは衝撃を受けているようだった。父の姿のこともあったが、それよりも、その父が16年もの間眠り続けているということのほうが、わたしに重くのしかかる。 植物状態。時の止まった世界で目覚めのない眠りにつく父。母は16年もの時を、どんな想いで過ごしてきたのだろう。 わたしはベッドに潜り込み、かえるのぬいぐるみを抱き寄せる。 「どうなっちゃうんだろ……」 母はあの日から、時々堰を切ったように泣き出すことがある。どうしようもなく無力なわたしになにができるわけでもなく、泣き続けている母の背中を見ているしかない。夢から覚めてしまった母は、日増しにその艶やかさを失っていった。ゆっくりと流れていた時が、再び本来の早さを取り戻したように。 明るかったはずのこの家が、ただそんなことがあっただけだというのに、暗く、そして寒く、寂しく感じる。夢から覚めてしまったのは、母だけではない。 「けろぴー……わたしこんなの耐えられないよ……」 逃げるようにはぬいぐるみを抱きしめ、流れ出そうとする涙を押し戻す。 泣いてどうする。泣いてどうなる? わたしは認めたくない。父という存在が、わたしの心を包んでいることを。あの男の存在が、この世界を作り出したのだ。母の心を持ち去り、まるで面識のなかったわたしにすら、その手を伸ばそうとしている。 憎い。 そんな一言では済みそうにもない感情が、わたしのからだをぐるぐると巡り、絡み付く。父の首をこの手でゆっくりと締め上げたい。この手でこの世界を壊したい。 ぎゅっと、まぶたをきつく閉じる。 病院に押しかけ、あの男にまたがり、血が通っていないように白んだ細首に手をかける様を夢想する。ゆっくり、ゆっくり、じらすように力を込め、そのかすかに残っている命の残滓を搾り取るように。 それだけで達してしまいそうな快楽が駆けめぐる。 なぜ思いつかなかったのだろう。あの男がいなくなれば、なにもかもが元通りになるのだということを。 ぎりぎりと骨の軋むような音がわたしの手から――あの男の首から聞こえてくる。ああ、なんて気持ちいいのだろう。 経験したことのない興奮がわたしを支配する。ぞくぞくと背筋を撫でる悦楽の波は、信じられないほどに心地よく、あたまが真っ白になりそうだ。 ふと男の顔に視線を落とした。 力の限り締め上げているというのに、顔色ひとつ変わらず、それがわたしの神経に障る。「この……!」だからもっと強く、もっともっともっともっともっと強く、腕の筋肉が弾けそうになるまで力を込めた。それでもあの男の寝顔は眉ひとつ動くことはない。わたしは初めて父の姿を見たときに感じた恐れを、再び思い出した。 にぃ、と。 それまで石像のように動かなかった男の表情に、笑みが浮かんだ。「名雪は、いい子だね」ぶちっ。それはわたしが『父親』に求めていたはずの言葉。「お前が言うな! お前はわたしのお父さんじゃない!!」がつっ、がつっ。こぶしがひび割れるような打撃すら、わたしをさいなむ言葉のようだ。「殺してやる!」再び首に手をかけた。「愛してるよ、名雪。お母さんの次にね」だまれ「名雪はお父さんが嫌いか?」だまれ。 びりびりと男の病院服を破り捨て、いつまでも戯れ言を吐き続ける口をわたしの口でふさぐ。 犯して、犯して、犯して、犯して、「気持ちいい? 娘の中は!!」だというのに顔色ひとつ変えない。「名雪はいい子だな」殴って、殴って、殴って、「殺してやる!」何度も犯し「殺してやる!」首を絞め「殺してやる!」殴り「殺してやる!」その快楽の渦に身を任せた。 いつまでそうしていたか、ちりちりと肌を撫でる空気に、まくらに埋めていた顔を上げる。 カーテンの隙間からこぼれる朝日に目を細める。自他共に認める睡眠欲の権化であるわたしが、まさか妄想にひたって夜を明かすとは、やはりどこか壊れてしまっているのだろうか。 「……あ、」 ショーツから右手を抜き、ぬるぬると愛液にまみれた指をくわえる。いまだに全身が熱を帯び、下腹部は満足していないとばかりにいやらしくよだれを垂らしている。暴力的な性衝動に駆られ夜通し自慰に耽っていたというのに、得られたものといえば、背徳的であまりに甘美な快楽と、罪悪と慚愧の念だけだった。 「こんなの……ただの変態だよ……」 そう呟いた言葉でさえ、じわりと快楽を生む。 なんか、もう戻れないところまでいってるような気もする。 大体、妄想していた内容が内容だ。まさかわたしにあそこまでの破壊欲求があったとは、想像すらしていなかった。信じたくはないけれど――実の父親を犯し、殺そうとして。このへん、わたしのモラルはどこに行ったのだろうという事態。 「わたし……こんなえっちな子じゃないんだけどな……」 べたべたに濡らした指をしゃぶりながら言っても説得力皆無だけど。 「とりあえず起きよう……」 ぐちゃぐちゃになったショーツを脱ぎ捨て、シーツで下腹部を拭う。肌がこすれるたび、じんじんとからだが疼いてしまう。とりあえずシーツはぐるぐるにして床に置き、パジャマを脱いで部屋着に着替えた。それでだいぶ落ち着く。 性欲が食欲と睡眠欲を駆逐してしまったのだろうか、空腹感は全くないし、眠気もどこかに行ってしまっている。 「はぁ……」 登校まではまだまだ、有り余るほどの時間があった。部屋を出てキッチンに向かい、椅子に座って惚けながら過ごす。 学校……学校かぁ……。 なんだか今日はなにをする気にもなれない。お母さんは……まだ寝ているのだろうか。 手持ちぶさたになり、わたしは玄関に足を向ける。靴を履き、ドアを開け、外に出て。 わたしは『父親』というものに幻想に近い憧れを抱いていたんだろう。だからあの男に、失望と、憎しみと、その他諸々の負の感情を感じるのかもしれない。それこそ――妄想の中でとはいえ――殺したいほどに。 しかしだからといってあの男を否定することはできない。目を覚まさないだろうという母の言葉の中に、わずかな希望が混じっているのを多分に感じる。母は今でも、あの男が目覚め自分を抱きしめてくれるのだと信じている。 火の消えたように暗い家。わたしはそれに耐えられない。だからだろうか、こうして家を出てふらふらとさまよっている。目的があったわけでもなく、ただわたしは、朝日にぬくめられた空気を吸い込みながら歩き続ける。 気付けば、 そこは病院だった。 白い部屋。色彩に乏しいこの部屋。 ベッドの横にある、いつも母が座っているであろう椅子に腰を下ろし、わたしはぼーっと目の前の男の寝顔を眺める。 きれいなものだ。しみひとつ、荒れのひとつもない陶磁のような肌。ひげのひの字すら見あたらないつるつるとしたあご。髪の毛はいつから切っていないのか、肩までに伸びている。 あの日から何度か来てはいたけれど、こうしてじっくりと見るのは初めてかもしれない。改めて見る男の顔は、やはり実父とは思えないほどに幼く、しかしそれこそが母をつなぎ止めている唯一の希望なのだろう。 何気なく、男の首に手を伸ばす。触れた指先に伝わるぬくもりは、この男が生きているということを知らせてくる。腰を浮かせ、男の唇をなめてみた。 「薬の味がする」 くすりと笑う。 再び椅子に座り、窓の向こうに見える木々のざわめきを眺め、わたしは流れてゆく時を無為に過ごす。 学校はもう2時間目も終わった頃だろうか。 香里、どうしてるかな。 わたしが来ないのを「ついに遅刻ね」と笑っているだろうか。 母は……泣いているのだろうか。 だれもいなくなった、あの冷たい家で。 ベッドの上で腕をまくらにわたしは男の寝顔を見続ける。 16年。わたしの歩んできた時そのものを、ただ眠り続けている男がいる。 そして、わたしの歩んできた時そのものを、ただ待ち続けている女がいる。 「許してあげるから……。お母さんを、幸せにしてあげて……」 無理な願いだとはわかっていても、それでもわたしは願うしかなかった。 わたしにできることはそれくらい。 わたしには、そんなことしかできない。 母を幸せにできるのは、この男しかいないということを、わたしは思い知らされているから。 「名雪、どうしたのよ。顔色悪いわよ」 遅刻記録を更新し続けているわたしに、クラスメイトの美坂香里が声をかけてきた。 「あ、うん……ちょっと寝不足」 「寝不足って……あんた、呆れるくらい寝てるくせに。そんなこと言うのはこの口か、この口かー」 香里がわたしのほっぺたをつまみ、うにうにとこねくりまわす。 「いらいよ〜」 香里は笑顔のままわたしの頬をうにうにうにうにうにうにうにうに。あうあうあうあうあうあうあうあう。 ひとしきりいじくりたおして満足したか、香里はわたしの頬から手を離し、ひとつ息を吐く。 「で、ほんとに大丈夫なの?」 「……うん」 頬をさすりながら答える。答えるが、しかし寝不足の理由が理由だったためにどうにも気まずい。加えてそんなわたしの態度を細やかに察知してくれるのがこの友人だ。 「……そう。それならいいわ。でも寝不足だからって授業中に寝ないでよね?」 話したくなったら話しなさい、香里はそう言って自分の席に戻っていった。心遣い、感謝します。 「ふう……」 目の奥がずうんと重くなるような眠気がやってくる。 実際のところ、わたしの平均睡眠時間は10時間を超える。そのわたしがここのところ毎日6時間しか寝ていなかった。理由は言わずもがな。 「やめなくちゃと思っても……やめられないんだよね……」 なにがって、ナニが。下品です。 「ふう……」 既にため息も癖になりつつある。家のこと、母のこと、あの男のこと。考えることすら億劫になる。いや、ただ考えたくないだけだろうか、とにかくわたしにとって問題は山積み。それはもう、世界最高峰といわれる某サガルマーターもびっくりなくらい。 わたしは平穏に日常を過ごしたかった。わたしと、お母さんと、ふたりだけの幸せな日常を。あの日――母からあの男のことを聞いてしまうまでは、わたしはなにひとつ不満のない穏やかな日常を過ごしていた。それが……あの男というイレギュラーが入り込んだだけで、そんなちっぽけなわたしの幸せなどどこかに吹き飛ばされてしまった。 こんなことならあのとき『会いたくない』と返事をすればよかったなどといまさらながらに後悔するが、だからといって過ぎ去った時が戻ってくるわけでもなく、とりあえずわたしは大きなあくびを欠いて、これでもかというくらい根性の入った睡魔と対峙する。あえなく敗退。わたしの睡眠欲の強大さをなめてもらっては困るというものだ。あ、最近はそれすら性欲に押し流されようとしている感は否めないけれど。 というわけで、 「おやすみなさい」 「言ったそばから寝るな」 ぼご、と香里がわたしのあたまを丸めたノートで叩く。しかもそのノートわたしのだし。反り直んないし。香里丸めすぎ。 「……おはようございます」 「はい、おはよう」 挨拶も交わしたということで再びまくら代わりの両腕に顔をうずめようとしたところ、視界の隅にわたしのノートをぐるっぐるに丸めてそれを振りかぶっている香里の姿が映る。構わず言ってみた。おやすみなさい。 おもくそぶたれた。 時というものはすべからく公平に人々に与えられる。 物理的な時の流れはちょっとやそっとのことでは一般人に手出しできるものでもなく、わたしたちにとっては常に一定に流れていて当たり前の事象。精神的なものであれば過去を思い返すということで時を遡ることもできるだろうが、それは現在の時の流れには干渉しない、個人の内面にだけ存在する時だろう。 しかし、そのどちらの『時』も流れることの許されなかった存在が、この白い部屋のベッドに横たわっている。唯一あらゆる人に公平に流れる時すら与えられなかった哀れな男。 母はあの日までは毎日2回、仕事前と仕事帰りにこの男のところに夢を見に来ていたというが、しかしいまでは5日に一度来ればいいほうという状況だった。母はもう、夢を見ることができなくなったのだろうか。 静寂と虚無と、どこまでも澄んだ男の寝顔。これでわたしとの続柄が父だとは到底信じられない。まだ『わたしのひとつ違いの兄です』と言った方が現実味がある。たしかに片親が自分と同い年の配偶者をとればそうはなるだろうが、この男は紛れもない実父だ。なんて面白い笑えない話しだろうか。でも笑ってみよう。 「あはははー」 びっくりするくらい乾いた笑い声だった。 心がすさんできているような気がする。 「はあ……」 本日何度目かもわからないため息。ため息を吐くと幸せが逃げると言うが、わたしの場合幸せが逃げてからため息を吐くようになったのだがこれ如何に。 しかし、いまひとつわからないことがあった。 「なんでわたしここにいるんだろ……」 あの冷たい家よりは、この白い部屋のほうがいくぶんあたたかい。だからだろうか、学校が終わって直接家には帰らず、一度ここに寄るようになったのは。わたしにとっては既に45回ほど絞殺したり37回ほど殴殺したりしているこの男に、一握の『父親』を感じたいのかもしれない。実に滑稽至極。 わたしは、なにを求めているのだろう。 世界に、学校に、友人に、母に、――この男に。 ぐるぐる。ぐるぐる。 ぐるぐる。ぐるぐる。 定まらない思考の渦は、トンボの目の前で指をくりくりと回すが如く。わたしのまぶたをぐいぐいと引っ張ってゆく。なんとなくオチが読める。このまま寝て次に起きたら朝でしたとかそんなところだろうけど、既にわたしは睡眠欲に勝てるほどの理性と気合いは持っていなかった。このごろ夜更かししているせいだろう、やたらとリキが入っている。 ということで今度こそ、 「おやすみなさい」 ざざっ ざぁ―――………… ノイズが暗闇を支配する。 脈打つようなノイズ。絶えることなく、途切れることなく、規則正しく、ノイズは響く。ただそれは不快なものではなかった。それはまるで母に抱かれているような優しさと、心地よさと、安心感をもたらしてくれる。 闇は命の海。人はそこから生まれそこへ帰る。多分、わたしはその闇の中にいるんだろうな、となんとなく感じた。 唐突に光が差してきた。 自然の光ではない、とてもとても明るい光。同時にわたしは闇から抱き上げられ、ノイズもまた消えてしまった。寂しい。すごく寂しい。先ほどまで感じていたぬくもりは失せて、代わりに苦しみが襲ってきた。 わたしは泣いた。力の限り泣いて、泣いて、泣いて。だけど闇もノイズも戻りはしない。ただ寂しかった。 闇を探そうと、わたしはまぶたを開けた。あふれるのは光ばかりで、わたしの求めているものはこれっぽっちもありはしなかった。 ――いや、かすかに、聞こえた。 ノイズだ。 脈打つようなノイズ。 それはわたしを抱き上げていた男から聞こえてきた。 わたしは男の胸元を握りしめ、そのノイズを求めて体を寄せた。 ――あぁ、聞こえる。 闇こそどこかへ消えてしまったが、わたしにはこれだけあればそれで安心できる。 ざぁ――……… ノイズは心地よく流れ、わたしのこころを落ち着かせてくれた。 先ほどまで泣いていたことなどきれいさっぱり忘れ、わたしは男の胸に身を寄せる。 でも、あぁ……なぜだろう。どうしてなんだろう。 男の顔には見覚えがあった。なのに、思い出せない。 もどかしい。知っているはずなのに、それがだれか出てこない。 男のてのひらがわたしのあたまを撫でる。おそるおそると動かすてのひらはぎこちなく、しかしわたしには至上の幸福感を与えてくれる。 きもちいい。 わたしは、ただそんなことで、幸せに満たされていた。 ――ぶつっ 何の前触れもなく、全てが消えた。 闇だ。 最初の闇とはまるで違う、一切の無。 なにもない、ただただ暗黒が支配する闇。 わたしは叫んだ。どうして!? 答えるものはいない。 わたしは寂寞たる暗黒に包まれ涙する。 まただ。 またわたしのささやかな幸せが奪われてゆく。 どうして? わたしがなにかした? なにもしてないのに! ――ぶつっ わたしは目を開けて、いままでのそれが夢であったことを理解した。理解したと同時に、耐え難い寂寥感に襲われる。どうしようもない寂しさが押し寄せ、ぐしゅ、とわたしの涙腺は見事に崩壊した。 泣いて、寂しさを押し流すように泣いて、あふれる涙をシーツにこすりつけながらわたしは泣いた。 「ぅ……えぐ……ぁぅ……」 どんなに我慢しても声が漏れる。 ぽん、と。 子供のように泣きじゃくるわたしを見かねてか、あたたかなてのひらがあたまを撫でる。それはまるで、あの夢のように、わたしの全てを包み込むような優しさに満ちた――あのてのひらだった。 「夢を……見た。俺が子供を抱き上げた時の、あのときの夢……」 その声を聞いても、それがだれかわからなかった。いや、わかっていて、それが信じられなかった。 「なんで泣いてるんですか……秋子さん……?」 ナースコールを壊れんばかりに押し込み、わたしは逃げるように病室から飛び出す。それまであの男に抱いていた憎しみは、あのてのひらに癒されるように消えていた。 あの男は、わたしの父だ! ぼろぼろと流れ出る涙は、あるいは歓喜の涙だったのかもしれない。 母は声を抑えようともせず、わんわんと人目もはばからず父にすがりついて泣いた。父の名前を呼びながら、二度と離さないとばかりに抱きしめ、母は泣いた。 「祐一さん……祐一さん……本当に……会いたかった……っ」 しかし父は困惑しているらしく、しきりにベッドの中で首をひねっている。 「秋子……さん? ちょっと見ないうちに大人っぽくなりましたね。って……あれ? 気のせいかもうひとりこれまた幼い秋子さんが……?」 幼いほうはわたしだろうが、母は父の言うことを微塵も気にせず泣き続ける。 「16年……っ、16年も、祐一さんは眠り続けてたんです! 長かった……もうだめかと思ったのに……祐一さぁん!」 その母の言葉は父にとってにわかには信じられないことだろう。医師達は父に問診を繰り返し、それでようやく状況を理解できたようだった。 「そ、れじゃ……こっちのせっくしーな秋子さんは秋子さんで、そっちのちっちゃい秋子さんは……あのときの……」 「ええ、そうです。わたしたちの子供。名前は……あなたがこれだって言った、名雪よ」 新事実発覚。わたしの名前は父の考えたものだったらしい。 「いや、16年? ……? それにしては全然年取ったようには見えませんでしたよ、秋子さんは」 「努力の賜です」 ようやく落ち着いてきた母は、ぐすぐすと鼻をすすりながら父の胸に顔をうずめる。母の最愛のひとである父の胸の中、安心したようにはにかみながらぽつぽつと話し出す。 まずは、ごめんなさい、と。父が16年も眠り続けていたのは、母をかばって事故にあったせいらしい。父は「こんな貴重な体験ができたんだ」などと笑い飛ばし、母の唇をついばむ。娘の見ている前でお熱いことで。 父はほんとうに事故のこと、眠り続けていたことを気にしていないようだ。父の身寄りは既に亡く、親しい友人もあまりいなかったらしい。だから変わったといえば母とわたしのことだけだ。ショックはショックだろうが、あまり重いものでもないらしい。 おどろいたことに、というか一番驚かされたのは、父の記憶は中学2年で止まっていることだ。事故に遭ったのがその辺りなのだから記憶がないのは当たり前だが、つまり父は13歳か14歳でわたしをこさえた計算になる。今までの会話を総合すれば、母はそのときわたしよりふたつかみっつ上だったというから―― まさか母娘二代で性的倒錯者とは。業を感じる。感じまくる。 父の名前は相沢祐一という。 姓が違うのは単に入籍していなかったかららしい。てっきりわたしは水瀬は父方の名字だと思っていた。というか入籍『していなかった』じゃなくて『できなかった』だけだとわたしは思います。思います。変態です。 父は16年もの長い間眠り続けていたわけだから、体力と筋力というものをどこかに忘れてきたように貧弱だ。見た目はがりがりのほねほねというわけではなく、適度に肉の付いたからだに透けるような白い肌、伸びた黒髪はどこか中性的な幼い顔と相まって、なんだかかえってきもちわるい。30になる男がこんなことでいいのだろうか。女のわたしや母よりもきれいな肌だ。世の中間違ってる。 父はベッドから起きあがるのも一苦労らしく、母の手を借りて車椅子にからだを落ち着ける。はっきり言って父はまだ退院できるからだではない。何ヶ月もリハビリを続けなければいけないほどに身体能力は落ち込んでいるのだ。しかし母は「リハビリなんて家でできます」などと言って強引に退院手続きを済ませてしまっていた。実際予断の許されない状況にあるかもしれないと言う医師の言葉は母には聞こえないらしい。なおも食い下がろうとする医師の腹にこぶしを突き刺す姿はわたしにかわからなかっただろう。がくりと膝を突く医師に「あら、大丈夫ですか? 医者の不摂生ってほんとなんですね。おほほ」と言う母にそら恐ろしいものを感じた。 母は強し。……違うか。 兎にも角にも父は退院の運びとなった。わたしの説得もあって父は毎月1日から5日までは検査と病院でのリハビリに入院することになったが、母の付き添いは認められなかった。そう言われた時の母の眼光は筆舌に尽くしがたい。ちびるかと思った。いまの母の父に対する姿を見ればだれでもそう言うだろう。もうべったり。入院となれば、はっきり言って邪魔以外のなにものでもない。渋々と引き下がる母だが、しかし代わりにわたしの付き添いを認めて欲しいと提案してきた。「まぁ、それなら」と言う医師に母は嬉しそうにわたしの手を取って「父娘の親睦も大事だものね」とのたまりやがりました。父のことが心配なのだろう、だからわたしは母の提案に反対はしなかった。 こうして父は我が家――いや、わたしたちの家へと帰ってきた。 冷たかった家。暗かった家。寂しかった家。 もうそんなことを思うことはないだろう。 車椅子を押す母に、笑顔の父。 そして、その隣で父の手を握るわたし。 あたたかな家はもうすぐそこまで近づいていた。 見慣れた道、わたしたちの家。 わたしは駆け出し、一足先に門をくぐり玄関のドアを開けた。 遅れて父と母が姿を見せる。 母は車椅子を玄関の前まで押し、父をその場に残してわたしの隣に立つ。 「お帰りなさい、祐一さん」 「ただいま」 母は泣いていた。 嬉しそうに、愛しそうに。 わたしの求めていたもの。 ちっぽけなものだったけど、叶わないと知りつつも求めていたもの。 たぶん、それはもう、すぐそこにあるはずだ。 「おかえり……お父さん!」 あれです。あゆもあんまり成長してないんだし。 どっちかって言うと連載用のプロローグですよね、これ。 ほんとは秋子さん×祐一父さんらぶらぶ名雪むきーなSSの予定だったんですが。 考えていたお話自体がこの先という事態。 そんなわけで(元)タイトルとかけ離れた内容になってます ……どうしよう。 というか私の書く短編こんなんばっかり。 「続き希望!」と言う方は↓から一言でもいいのでメールでも下さいな。 書けるかわかりませんけど(ぉ というか本来書きたかったのはその「続き」の部分だったんですけどね。 名雪が病室から飛び出したあと秋子さんに連絡してそのまま戻らなかった場合、祐一が退院する雪の日に駅前で迎えを待っていて「雪、積もってるよ……」っていう名雪との出会いのシーンもはじめはあったという。 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