ふわり、と。

 単の裾を揺らめかせて板張りの床に足をつけた。
 ここはどこだろう。
 ここは――そう、祐一さんの。
「……祐一さん」
 呟いてみるが、返事はない。
 あたまを巡らせ、辺りを見回す。
 誰も居ない。
 なにもない。
 がらんとした、酷く寂しい風景。
 まるで誰かの心をそのままに映したような――
「祐一さん……?」
 わかりきっていることを――求める人が居ないことを認めたくない。
「どこ……どこに居るんですか……」
 ひた、と足を進める。
「隠れてないで……出て、来てください……」
 居ない。
 どこにも、誰も、居ない。
 ざわざわと賑わう表の通り。
 ただそれだけが、ここを現実の世界だと教えてくれる。
 虚無。
 心に穿たれた穴。
 呑み込まれそうなほどに湧いてくる恐怖。
 
 ――俺が今までに嘘をついたことはあったか?
 
 つ、と頬を一筋の涙が流れる。
「うそつき……」
 床にひとしずくのシミだけを残し、栞は再び消えた。
 
 ――うそつき。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鬼月幻想奇譚
    〜 正しい魔物の屠り方 〜

十三ノ門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 声が聞こえる。
 俺の名前を呼ぶ声。
 
 ゆういち ゆういち
 
 か細い、今にも消えそうな声。
 
 ゆういち ゆういち
 
 闇の中、それはまるで一筋の光。
 俺のみちしるべ。
 
 ゆういち ゆういち
 
 重い――酷く体が重い。
 鉄の塊にでもなった気分だ。
 声だけが僅かに心を軽くする。
 
 ゆういち ゆういち
 
 だれだ、俺を呼ぶのは。
 いや……ここはどこだ。
 ――あぁ、そうか。
 目を、開けないとな――
 
 
 
 
 
「祐一!?」
 耳元での高い声に思わず祐一は眉をひそめた。
「全鬼、護鬼ぃ! 祐一が気付いた!」
 祐一は腹部と首に布を巻かれた状態で、わらむしろの寝台に横になっていた。
 ――これは?
 祐一は声の主を見やる。
「真琴……?」
「祐一、そう、真琴。真琴だよぅ」
 目尻に涙を浮かべて祐一の胸に抱き付く。
「ほんとに……死んじゃうかと思ったよ」
 右手で真琴の頭を撫でながら辺りを見回す。
 朽ちかけた山小屋のような、しかしよく見ればさして古くもない御堂のような造り。
 ぢぢ、と油火の柔らかい明かりに真琴の影が大きく映し出される。
 ――物忌みの堂か。
 ものみの丘から続く深い森の中に、物忌みの堂はぽつんと佇んでいる。
 物忌みというのはいわゆる魔よけの一種のようなものだ。
 ある期間、飲食、人との対面などを禁じて身を清め、不浄を避ける。
 物忌みの堂はそのための建物。ものみの丘の由来でもある。
「……御主人」
 ゆらり。影が揺らめく。
「全鬼か……」
 ぽんぽんと真琴の背を叩き、体を起こす。
 真琴は支えるように祐一の背に手を回した。
「どのくらい寝てたんだ?」
「三日と少しです」
 祐一は少し驚く。
「そんなにか」
「連戦での予想以上の体力と精神力の消耗。そして最後の一太刀が原因です」
 全鬼は水を張った桶を置き、祐一の傍らにつく。
 巻かれたサラシを取り、傷の具合を確かめる。
「……護鬼が縫合と呪で手当を」
 水に浸した布を絞り、祐一の体を丁寧に拭う。
「妖狐の一族にも手を借りました。妖狐の中には治癒に長けた者がいたようでしたので」
 つ、と祐一の腹部に指を這わせる。
「傷の一筋も残らず治りました」
「……そのようだ」
 たった三日であれほどの傷を治すとは。祐一は感銘を覚える。
 よほどの腕前のようだ。一度会ってみたい。
「それと妖狐の長からことづてです。『不思議な人間よ、ありがとう』」
「……礼をされるような事をした覚えはないんだが」
「そこの妖狐の事と、伏鬼士との一戦の事での謝辞のようです」
 祐一にはその意味がよく分からなかった。
 そういえば護鬼は、と言おうとした時。
 がたん。なにかを落としたような音が鳴る。
「マスター……」
「あぁ、護鬼」
 ありがとうと言おうとしたが、護鬼は頭を抱きかかえるようにしがみつく。
 もがもが。祐一は護鬼のふくらみかけの胸の中で言うが言葉にならない。
「マスター……」
 真琴は、まぁ仕方ないわね、という表情でふたりを眺める。
 もがもが。護鬼放せ、と言うがこれも言葉にはならない。
「護鬼、放しなさい。御主人が困ってます」
 全鬼が静かに言う。
「……わかっている」
 渋々と祐一を解放し、護鬼はちょこんと祐一の枕元に座る
 やはり変わってきたな。祐一は思う。
「いつ……」
 ずき、と引きつるような痛みが腹に走った。
 祐一は手で探ってみるが、特に異常は見られない。
「傷は治せましたが、痛みは自然治癒と同程度の期間続くはずです」
「あぁ……道理で」
 どうせなら痛みも消しておいて欲しかったな。祐一は愚痴る。
「それと御主人……ひとつだけ言わせて下さい」
「ん、なんだ」
 全鬼がいつになく神妙な面持ちで祐一を見据える。
 その瞳には溶けた氷を思わせる、確かな感情が見えてきた。
「人の体で……変異も無しに伏鬼士に挑むようなことはなさらないでいただきたい。
 なにか勝算があってと思い止めませんでしたが、結局は腕一本だけの勝負でした。
 今後はお控え下さい――私どももおります。これでも、最強を自負する鬼の一族です」
 全鬼は顔を伏せ、力無く呟く。
「……この全鬼が信じられないのでしたらそう仰って下さい。私は御主人の下を離れましょう」
 説教は御免だ、と祐一は思ったが、なにやら雲行きが怪しい。
「御主人……私どもでは、御主人の力にはなれませんか……?」
「マスター……」
 今にも泣きそうなふたりの顔を、こちらも泣きそうな顔で祐一は眺める。
 ここまで自分を慕ってくれているのは嬉しいのだが、困惑ばかりが広がる。
 今までは押しても引いても鉄の仮面。
 微笑むことすらなかったふたりが、悲しみに顔を歪ませている。
 当面の目標をこんな形で達成するとはな……。祐一は深いため息をつく。
「……そんなことはない。十分、役に立ってもらっている」
 ぽんとふたりの頭に手を乗せる。
「ありがとう。心から礼を言うよ」
「御主人……」
「マスター……」
 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙。
 鬼の目にも涙とは言うが、正にその通りだ。
 慈悲も無い氷のようなこのふたりが涙を流すとは。
 祐一は改めてふたりの成長を感じる。
「今回の事は必要な事だったんだ。少しでも力のある人間を見つけないといけない」
「どうして?」
 真琴が言う。
「それは俺にもよくわからない。でもはっきりしてるんだ。近いうちになにかがある。
 だから……力のある人間にあたりをつけていたんだよ。今回はちょっと誤算だった」
 ぽん、と祐一は腹を叩く。
「今度からは気を付けることにする」
 全鬼、護鬼、真琴はうんうんと頷く。
「町の様子はどうだ?」
 三日も寝ていたらなにか進展もあるだろう、と祐一は思う。
「徐々に鬼狩りが拡大していますが、まだ本格的というわけではありません。
 おそらく……二、三日後に一斉掃討が行われるはずです」
「二、三日か……まだいくらかは余裕があるわけだ」
「あの……祐一、ちょっと」
 真琴が祐一の服の端を掴み、おずおずと話し掛ける。
「ん、なんだ?」
「あの……ね。今更なんだけど、その、こっちのふたりは誰なのかな……って」
「全鬼と護鬼だろ」
「あぅ……でも、ふたりとも全然喋らないから……」
 三日も一緒にいながら自己紹介も無しだったわけか。祐一は納得してしまう。
 おそらく『あぅ……真琴』『全鬼』『護鬼』で会話が終わったのだろう。
「そうだな、一応紹介しとくか。まず全鬼な。全鬼は昔っから鞍馬山に住んでる天狗だ。
 得意なものは刀術か。俺の太刀も全鬼に預けてる。全鬼、出してくれ」
 全鬼が右手を前に持ってきたかと思うと、そこにはいつの間に握られていたのか、飾太刀が一振り。
「どうぞ」
「え、え? ……あぅ」
「出し入れ自由って感じだ。便利だから俺は武器とか持ち歩かなくなったな」
 真琴はまだ困惑している。
「護鬼は……ちょっと訳ありだな」
「そうなの?」
「……見てわかるだろ」
 金の髪、蒼い瞳、この国ではお目にかかることはないひらひらとした服。
 顔立ちも同年代の少女とは一線を画す。
「海を渡って来たらしいんだが……俺にはよくわからん。
 全鬼と出会って、一緒に行動するようになったんだと」
 護鬼はなにか嫌なことを思い出したように眉間に皺を寄せ、小さな拳を握りしめる。
 それに気付いた祐一が護鬼の髪を梳くように撫でつける。
「向こう――向こうってのがどこかは知らないけど、そっちでちょっと色々……な」
 護鬼から話を聞いていた祐一は言葉を濁す。
「うん……わかった」
 真琴は祐一がなにを言いたいのか理解する。
 口に出して気持ちのいいものでもないのだろう。
「で、今はふたりとも使鬼神として俺と共にせせこましい日々を送ってるわけだ」
「……あぅ」
 真琴に人間の使う専門用語は理解不能らしい。
「使鬼神は俺に仕えている鬼ってことだ」
「ふ〜ん……」
 と、そこで真琴は表情を輝かせて祐一に迫る。
「じゃ、真琴も祐一の使鬼神になるっ」
「無理」
 即答する祐一。
「なんでぇ〜」
「あのな……鬼ってのは精気を喰って生きてるだろ。
 使鬼神ってのは使役者の精気でその体を保ってるんだよ……」
「あぅ……あ、でも祐一はふたりも養ってて平気なの、その……体のほうは」
 使鬼神は一体でもかなりの精気を必要とする。
 知識の乏しい真琴だが、それはなんとなくわかるようだ。
「問題ありません。御主人は絶倫ですから」
「絶倫」
 護鬼もこくこくと頷きながら復唱する。
「……いや、その言い方だと俺がすごいことしてるように聞こえる」
「しかし事実ですが……」
 護鬼は絶倫絶倫と連呼している。
「絶倫って……なに?」
 真琴は不思議そうな顔で聞いてくる。
「絶倫というのは精――」
「全鬼、説明しなくていいから」
 祐一は額を押さえながら全鬼の言葉を遮る。
「あぅ……?」
「とにかくな、真琴。俺にはこのふたりで丁度いいんだ。そういう意味」
「……うん、わかった」
 そうかと祐一は頷き、痛みの残る腹を押さえて立ち上がる。
 寝ている間に着替えさせられたのだろう、祐一は直垂纏っていた。
 それを脱ぎ、全鬼の用意した狩衣に腕を通す。
「知らないことが多すぎだ。しばらく町に出て情報を集めてくる」
「わかりました。では――」
 立ち上がろうとする全鬼と護鬼を祐一は押さえた。
「いや、ふたりともここを頼む。町へは俺ひとりで行く」
「それは承知しかねます。二度とあのような思いはしたくありません」
 きっぱりと全鬼は言い、護鬼はうんうんと頷く。
 祐一はため息を吐く。
 予想はしていたが、しかし連れて行くわけにもいかない。
「全鬼、護鬼。お前達にはこの森の守護をしてもらいたいんだ。
 流石に世話になった妖狐族を見殺しには出来ない」
 真琴は不安そうに祐一達を窺う。
 鬼狩り――死。真琴の脳裏に十年前の記憶が蘇る。
「祐一……行っちゃうの? 真琴を置いて……」
 祐一の狩衣の袖をぎゅっと握りしめ、涙を浮かべた瞳で見つめる。
 不安、恐怖、憎悪。
 ないまぜになった感情が真琴を覆う。
「あのときも……そう。真琴を置いてみんな――みんな居なくなった。
 祐一もやっぱり……真琴を置いて行っちゃうの……?」
 ぐすりと鼻をすすり上げ、上目遣いに祐一を見上げる。
 祐一は大きくため息を吐き、真琴の頭を撫でながら言う。
「置いていかないって。だれも居なくなりはしない。そのために行くんだ」
 膝を折って目線を合わせ、祐一は真琴を優しく抱きしめる。
「聞こえるか?」
 こつんと額を合わせて言う。
「……うん。聞こえる」
 全鬼と護鬼は、意識すればある程度祐一の思考を感じられる。
 それが、真琴にも感じられた。
 流れ込んでくる、包まれるようなあたたかな思考の渦。
「気持ちいいね……祐一の……」
 瞼を閉じ身を委ねる。
「わかっただろ。だから俺は居なくならない」
「……うん」
 真琴は祐一から離れ、少しためらいがちに微笑んだ。
「真琴がここを護ってみせる。森には……一歩も踏み入らせない」
 妖狐族は人間にはあまりにも無力。
 だから真琴とその一族のことは、全鬼と護鬼に託すしかない。
「全鬼、護鬼。そういうわけだ……お前達も残ってくれ」
 主人のそんな思いを感じ、全鬼と護鬼は言葉に詰まる。
 ……だが、もし。
 もし自分たちの居ないところで――
 それを思うだけでなにも考えられなくなってしまう。
「……いえ、やはりそれは承知出来ません」
「全鬼……」
 諦めにも似たため息が祐一の口から漏れる。
「しかし、この森を人間から護ることなど私ひとりで事足ります。護鬼」
「わたしがマスターと町に行く」
 そういうことか。祐一は頷く。
「まぁ……それならいい。真琴、全鬼、頼むぞ」
 全鬼は唇を歪め、ぞっとするような冷たい声で言う。
「近付くモノはこの『鞍馬天狗』の名にかけて、抹消させて頂きます」
 祐一は実に七年ぶりに全鬼の微笑みを見た。
 
 
 
 
 


あとがきさん

没ネタ。
護鬼「マスターのが中に注ぎ込まれて……」
いかんて、それ。

単<ひとえ>
御堂<みどう>
 おどうに非ず
物忌み<ものいみ>
使鬼神<しきがみ>
 しきじん でも可
絶倫<ぜつりん>
 人並はずれてすぐれていること
直垂<ひたたれ>

今回はちょっと微妙かな……
時間がいまいちまとまりきりませんね。
一応栞の所から三日後が、堂の中のお話です。
それと護鬼のことをもうちょっと掘り下げて書こうとしましたが、話がずれていってしまったので没。
う〜ん、なかなか進まないな……
全鬼護鬼のキャラも作りきられていない感が浮いてきてませんでしょうか。
この辺が不安で不安で仕方ない……メインで100%オリキャラって初めてなんで。

さて、ようやくシキガミというのが出ましたね。
このての話に必ずと言っていいほど出てくるシキガミ。
今まで出ないのが不思議に思う方って居ましたかね……
まぁ、出すタイミングが全然わからなかっただけなんですが(←へぼ
本家陰陽道の式神は……出るかどうかわからないです。
う〜ん、晴明さんとかも出してみたいな……

今回はうんちくで書こうとしてたネタがありましたが、ありすぎるので次回以降にまとめます(汗


では、次の門が開かれるまで暫しのお別れを……
と言ってみる。
 
 

SS index / this SS index / next 2002/06/05