「祐一さん……」
 栞は、ひとり寝所に佇んでいた。
「祐一さん……祐一さん……」
 会いたい。
 栞の心にはそれしかなかった。
 もし今会わなければ、二度と会えないかもしれない。
 祐一の言葉は信じているが、栞は不安に思考を満たされる。
 もしあの言葉が嘘だったら?
 もし病気が再発したら?
 もし、もし、もし――
 頭を巡るのは仮定の恐怖。
 そんなことはない。
 否定をしてもその不安は消えることはない。
 そればかりか、どんどん増していく。
 押しつぶされそうなほどの不安。
「会いたい……会いたいです、祐一さん……」
 ゆら、と体を揺らし、歩を進める。
「祐一さん……祐一さん……」
 祐一さん、祐一さん、祐一さん。
 欄干に手をかけ、
 ふわりと、
 消えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鬼月幻想奇譚
    〜 正しい魔物の屠り方 〜

十一ノ門
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 召集した呪士へ鬼狩りの説明を終えて、その背中を送り出していた時。
「あれは……」
 香里は見覚えのある後ろ姿を捉えた。
「名雪っ」
 声を上げ、駆け出す。
「あ、香里。どうしたの?」
「どうしたの、じゃないわよ。どうしてあなたが居るの?」
 香里は名雪に召集令を出した覚えはなかった。
「え、だって……」
「わたしが連れてきたんですよ」
「あ、秋子さん」
 す、と香里が頭を下げる。
「わざわざ申し訳ありません」
「いえ、いいのよ」
「でも……なぜ名雪を?」
「もう一人前ですから。それに実践で学ぶことも多いでしょう」
 たしかにそうだが、それよりも危険の方が遙かに上だろう。
 香里は口にこそ出さないが、表情を歪める。
「大丈夫よ。わたしが居るんですから」
「そう……ですね」
 少し表情をゆるめ、髪をかき上げる。
「秋子さん、今回あなたを呼んだのはただ鬼狩りに参加させるためだけではありません」
「ええ、分かっています」
 秋子は頬に手を当て、微笑む。
「鞍馬の鬼……そうでしょう?」
「えぇ……秋子さんはなんでもお見通しですね」
「鞍馬の鬼がどうかしたの?」
 名雪は会話の内容がいまいち掴めず、不思議そうな顔をする。
「つまりね、名雪。今回の目的は鞍馬の鬼の捕獲、もしくは抹消ということよ」
 秋子はできの悪い子供に言い聞かせるようにゆっくりと言う。
「え〜と……鬼退治は?」
「それは他のひとの仕事ね」
「他の……え、もしかしてわたしも鞍馬の鬼の方?」
「よくできました」
 香里はぱちぱちと手を鳴らす。
「……そんなぁ」
 名雪はげんなりと肩を落として嘆く。
「わざわざ実の娘を死地に送るの?」
「大丈夫」
「何が大丈夫なの」
「お母さんね、禁呪の中でも知っただけで死罪っていう、屍操傀儡も使えるから」
「さらに嫌だよ!」
「……秋子さん」
 顔を青くする香里。
 このひとは何者なのだろうかという思いがこみ上げるが、口にはしない。
 秋子は拳を口元に持っていき、ひとつ咳払い。
「こほん。それは、まぁ、名雪の意識が消えた時に考えるとして」
「考えなくていいよ! ていうか死ぬこと前提に話し進めてるよ!」
 ばしんっ、と秋子が名雪の口に符を貼る。
「鞍馬の鬼は捕獲が最優先、不可能ならば抹消が次項ですね」
 もが、もが〜〜、と名雪。
「そうです。報奨金は通常の二倍、こちらで用意させて頂きます」
「あら、そうですか」
 もがっ、もがっ、と名雪。
「では……宜しくお願いします。お気を付けて」
 深く頭を下げる。
「承ります、当主殿」
 では、と秋子は踵を返し、もがいている名雪を引きずりながら美坂家をあとにする。
 香里は門を出ていくふたりの姿を見届け、髪をかき上げて息を吐く。
「……あたしも、すぐに向かいます」
 呟き、屋敷の中に向かう。
「栞……待っててね。もうすぐ鬼の首を持ってきてあげるから」
 禍々しい笑顔を浮かべ、くく、と喉を鳴らす。
 香里は、呪われた血に今は感謝している。
 なにせ鬼の気配がわかるのだ。
 どこに隠れようと、引きずり出してあげるわ。香里は声を上げて嗤う。
「あぁ、栞。少しの間出掛けるから、挨拶しなくちゃ」
 微笑みを浮かべたまま、香里は栞の寝所へ向かった。
「もうすぐだから……ね」
 
 
 べりぃ、とまるで皮膚ごと剥がされたような音と痛みが顔面に走る。
「いった〜〜〜〜〜〜い!」
 通りの真ん中で名雪が絶叫する。
 真っ赤になった口元を押さえて、母親に非難の目を向けた。
「も、もう少し優しくしてよ〜」
「あら、こういうのはじっくり剥がした方が痛いのよ?」
「うう〜〜」
 名雪が唸る。
「さ、それじゃあ行きましょうか」
 そんな名雪を無視して秋子は歩き始める。
「あ、あ、待ってよ〜」
 ぱたぱたと駈けて秋子の隣に列ぶ。
 町を東西のふたつに分ける大通りを親子は歩く。
 都にならい、整然と列ぶ家屋。
 行き交う人々。
 威勢のいい掛け声。
 軒先で談話するしびら姿の婦人。
 平和そのものの風景。
 しかし、よく耳を傾ければ、話の内容は暗いものばかりだ。
 ――隣の奥さんの息子が鬼に……
 ――都からの討伐隊が全滅したらしい……
 ――畑がやられたよ、今年はどうすれば……
 名雪はその話を聞いていく度、悲しみと怒りがこみ上げる。
「そう。だから、わたし達が鬼退治をするの」
 名雪の気持ちを察した秋子が、前を見据えたまま話し掛ける。
「これ以上の被害を出さないために。これ以上悲しむひとが出ないようにするために」
 母親の顔を見上げ、笑顔を作る。
「そうだね」
 お母さんは強い。力だけじゃなく、心も。名雪はそう思う。
「わたしも、お母さんみたいになる」
 ぐっと拳を握りしめる。
 そんな娘を乾いた瞳で見つめる。
 ――そう簡単じゃないわよ、名雪。
 この子は鬼というものを知らなすぎる。
 なぜ鬼が存在するのか。
 なぜ鬼が人を喰らうのか。
 なぜ鬼が人の形をとるのか。
 なぜ鬼が『鬼』と呼ばれるのか。
 ――この悲しみに耐えられるかしら?
 ぽんと名雪の頭に手を乗せる。
「頑張ってね」
「うんっ」
 笑顔で名雪は答えた。
 
 
 支度のために家に戻った時、名雪が口を開いた。
「そう言えば、祐一はどうするのかな。香里の家には来てなかったみたいだけど」
「祐一さん? そうね、どうするのかしら」
 隣人のことを口に出すと、秋子の表情が優しいものになる。
「祐一、ああ見えても結構強いし。鬼の五、六匹なら片手でぽいじゃないかな」
「そうねぇ」
 頬にうっすらと赤みが差す。
「……祐一さんも連れて行こうかしら」
 ぽそりと呟く。
「それじゃ、呼んでくるっ」
 名雪は考えていた。
 祐一の前でいいところを見せれば、もしかするともしかするかもしれない。
 やっぱり、祐一だって若い女の子の方がいいに決まってる。
「ゆ〜いち〜、居る〜?」
 どんどんと戸を叩くが、反応はない。
「……出かける前は居たのに」
 そっと隙間から中を覗くが、もぬけの殻だ。
「居ないよ……」
 とぼとぼと戻っていく。
「居ないみたいね」
 秋子は名雪の表情から、隣人が留守だと言うことが分かる。
「うん……」
「仕方ないわよ。祐一さんだって忙しいでしょうし」
 櫃の中から大量の札を取り出して言う。
 札には複雑な図形と文字が描かれている。
「鞍馬の鬼相手に、この程度の符は気休めにもなりませんね」
 治癒符を選り分けながら呟く。
 呪による治癒というのは殆ど見込めない。
 精々が止血や回復力を高める程度だ。
 呪も万能ではない。
「そういえば……お母さんって、鞍馬の鬼と戦ったことあるの?」
 名雪が懐刀と符を揃えながら聞く。
「あると言えばあるわ。でも……」
 なにかを思い出すように、秋子は顔を上げる。
「十年前に編成された鬼狩りの討伐隊の話は聞いたことあるわね」
「うん。一番成果があったけど、討伐隊士は一割も生き残らなかったっていう、あれでしょ」
「そう。そしてその中にわたしも居たのよ」
 名雪は驚く。
「十年前……」
 秋子は目を細める。
「名雪? 何を考えているのかしら?」
「……なんでもないよ。続けて続けて」
 額に冷や汗を流しながら言う。
「鞍馬山は知ってるわね。わたしはそこの編成隊に加わって鬼狩りをしていたわ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 鬱蒼と生い茂る杉の木と、湿った土と葉の匂い。
 昼間だというのに薄暗い山林の中に悲鳴ばかりが響く。
「どこだ!」
「違う、そっちに――がぁ!」
「おい! 大丈夫か!」
「くそ! どこだ、どこに居るんだよぉ!!」
 山狩りに派遣された六十もの呪士と伏鬼士は、既に三十も残っていない。
 辺りには鬼の死骸と、それ以上の人間の――いや、人間らしき肉の破片が散乱している。
「ぶひゃ!」
 ばしゃ、とぶちまけられる鮮血と臓物。
 それを浴びた伏鬼士は、ひ、としゃくり上げるような悲鳴を上げ――上げきる前にその頭が消えた。
 ごしゅ、と鈍い音を立てて杉の幹が染まる。
「あ、ああ、あ……」
 鞍馬山は楽な担当と言われていた。
 なぜかと言えば、そこは隠れる場所が多い。
 隠れるような鬼は軟弱な種の鬼と決めつけられていたからだ。
 そして実際そうだった。
 被害も出さず粗方の鬼を殲滅した時、異変が現れ始めた。
 居るはずの者達が消え始めたのだ。
 小便でもしているのか、と隊が山を降りる足を止めて小休止した直後、悲鳴が上がった。
 黒装束に身を包んだ二匹の鬼を先頭に、十ばかり鬼が付き従うように現れたのだ。
 そしてこの有様。
 残る鬼はたったの二匹だが、恐ろしく強い。
「陣を組め! 散れば鬼の思う壺ぞ!」
 そう言った呪士の背が詰まる。
 脇から腰までが綺麗に無くなっていた。
 どぷ、と遅れて血が溢れ出す。
 闇雲に太刀を振り回す伏鬼士は、自分の首が無くなっていることに気付かず歩き回っている。
「くそぉぁ!」
 辛うじて捉えた影に斬りかかろうとするが、ぶひゅ、と妙な音をたてて下半身だけを残して倒れた。
 ある者は頭から股までを両断され。
 ある者は人の形をとらない肉の塊にされ。
 ある者は血の全てを抜き取られ。
 ある者は後頭部だけを吹き飛ばされ。
 ある者は腹から木の枝を生やされ。
 ある者は胸を爆発させられ。
 ある者は一寸の厚さに潰され。
 あまりにも――あまりにも一方的すぎる戦い。
 いや、戦いと呼ぶのもはばかられる。
 ただの、虐殺だ。
「そんな……」
 いくつかの鬼狩りを経験していた秋子は絶望していた。
 何度も何度も聞かされた話。
『隊の半分が居なくなるくらいだったら、運が悪かったと諦めろ。例外は一度もないからな』
 それはつまり、半分が死んでしまえば、もう半分も同じ運命を辿ると言うこと。
 もはや生き残ることは出来ない。
 遠くから悲鳴が聞こえる。
 ――また一人、死んだ。
 また一人、また一人。
 また一人、また一人、また一人、また一人、また一人、また一人、また一人、また一人。
 むせ返るほどの血と汚物の匂い。
 見渡せば緑と朱。
 生に満ちあふれた森に、死ばかりが充満している。
「ぐっ」
 こみ上げるものをだらしなく吐き出す。
 涙に視界が歪む。
 もういやだ、こんなことになるなんて、誰か助けて。
 涙と鼻水と吐瀉物にまみれた顔を袖で拭い呟く。
 太刀も砕かれ、符も尽き、精神も摩耗し、あとは為す術の無く殺されるだけ。
 ――また一人、死んだ。
 今度は誰の番?
 地獄のようなこの風景を最後の舞台に、秋子は覚悟を決める。
 お守り代わりの懐刀を取り出し、刃を見つめる。
 毎日手入れをしているその刃は、鈍い銀色をした鏡のよう。
 精気のない秋子の顔を映し込む。
 せめて一太刀。
 鬼の胸に突き立てて言ってやろう。
 どうだ、鬼。人に傷つけられる気分は。
《最悪の一言だな》
 頭の中に直接響く低い声。
 秋子は声を失う。
「あ……あ……」
 目の前には影が佇んでいた。
 恐怖に全身が硬直する。
《どうした人間。ソレを胸に突き立ててくれるのだろう?》
 頭からつま先まで黒一色の布で覆われている鬼の腕が揺れる。
「い、いやぁ……」
 膝が震え、立っていることもままならない。
《はっ……やはり人間はつまらない。ひよわで、群れなければ鬼にも向かえない》
 びちゃ。鬼が血溜まりの中を一歩踏み出す。
《こんなもののために、なぜ我らが滅ばなければならない》
 びちゃ。
「こないで……こないでぇ……」
 初めての死の恐怖。
 それはあまりにも大きすぎる重圧。
 懐刀を握る両腕が震える。
《莫迦な人間。おとなしく町で暮らしていれば死ぬこともなかった》
 びちゃ。
《こないのか。こないのなら――》
 鬼は秋子の握る懐刀に目を留め、影に隠れた眉をひそめた。
《……ふん。そんな物騒なものを持つ人間がこの地にもいるか》
 身を沈め、高く跳躍した。
《もう飽きた。お前は見逃してやろう》
 鬼はそう言って、消えた。
 同時に秋子は意識を失い、血溜まりの中に倒れ込んだ。
 
 この年、千もの人員を投じて行われた鬼狩りは、生還者わずかに五十九人。
 その全てが命辛々に逃げおおせただけだった。
 しかし、失敗かと思われた鬼狩りは一応の成功を収めてはいた。
 それ以降五年は片手で数える程にしか鬼の被害はなかったのだ。
 
 平和。
 それはあまりにも大きな犠牲の上に成り立っていた。
 
 
 
 
 


いいわけ

秋子さん最強伝説に終止符。
秋子さん属性の方、すまん。
鼻水とゲロまみれの秋子さん書いたやつなんていないんじゃないかって思うんですが。
つーか普通は書こうとか思わんでしょう。
秋子さんって、デフォルトで最強に書かれることがあまりにも多い。と思う。
私のSSで秋子さんは結構弱めに書かれていましたが、このSSは今までで一番ひどい。
謝ります。
すんませんすんませんすんません。

いや〜、それにしても酷い内容。
秋子さん派の方はお怒りでしょう。
でもやっぱり、秋子さんを最強に仕立て上げるのには下地というものが欲しいと思うんですよ〜
わかってください。てか今回は見逃してください。
それでもやりすぎだと言うのは無しの方向で。
失禁シーン書かなかっただけいいでしょう?
……いや、そっちの方がいいという属性の方もいたりするんですけどね。
『失禁』って書くよりは『放○』のほうがグッとくるものなんでしょうか。
よくわからんです。

このSS、本編に関係ない微妙な伏線バリバリ(死語)です。
普通に読んでれば流すような科白とかにそれが入ってたり。
気にせずざくっと読みましょう。
気にしたら負けです。謎が解けたら勝ち。

さて、祐一は養生のためあと1〜2話ほどお休みをとります。
復帰するまでは周りの動きをつらつらと書いていきますです。
 
 

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