げき いもうと
 〜うさぎがお菓子を食べる理由(わけ)

 
 
 
 
 俺と兎萌は秋子さんの作ったクッキーの試食会のため、リビングに下りてきていた。
 名雪は未だに夢の中。
 もう昼過ぎだが、休みということもあって、わざわざ起こす必要もない。
 真琴は『美汐が呼んでる……』という科白を残してふらりと出掛けていった。謎だ。
 さくさくと小気味よい音がリビングに響く。
「うん、うまいな。これ好き、オレ」
 兎萌はチョコレートチップの入ったミルククッキーを手にしながら言う。
 ミルククッキーは焼きたての香ばしい匂いと甘いミルクの香りがただよう。
 それにちょっとビターなチョコチップ。
 いやな甘さはなく、食べていて飽きがこない。
「お〜、これもうまい。しかも口の中でとろけるような〜」
「ん? これクッキーなのか? 初めて食った」
 口の中に入れるとふわりと溶けていく不思議な食感。
 レモンの風味と、挟んである生クリームとミルクチョコレートもいい感じ。
「それはメレンゲで作ったクッキーなんですよ」
 秋子さんが台所から顔を出す。
「メレンゲで? 作れるもんなんだな……」
 兎萌は感心したふうに頷く。
 メレンゲで作るとこんなになるとは、俺も知らなかった。
「もうすぐ次のが焼けますから」
「うい〜」
 残りのクッキーをばくばくと喰らってゆく兎萌。
 俺の分を残そうという殊勝な心がけは持ち合わせていないようだ。
 ひょいと兎萌の脇からひとつかすめ取る。
「あ!」
「あ?」
「それオレの!」
「うさのはその皿にまだあるだろうが」
「……それでも!」
 わがままな奴。
「太るぞ」
「気にしてない」
「……もぐもぐ」
「あ゛ーーーー!!」
「うん。やっぱりうまい」
「……くそ、あとでみとけ」
 と、ちょうど秋子さんが、トレイに何種類ものクッキーを乗せてキッチンから顔を出す。
「できましたよ。はい、試食お願いします」
「おおぅ、待ってました〜」
 兎萌が嬉しそうに手を鳴らす。
「今回はちょっと自信作です」
 こころなしか秋子さんの表情が誇らしげだ。
「んじゃいただきます」
 兎萌は手前にあった、もこもことしたクッキーに手を伸ばす。
「ん〜、しっとりしてて、これはこれでいいな〜」
 バニラの香りがふわりと漂う。
 アーモンドとココアの粉末をまぶしたバニラクッキーだ。
 口に入れてみると、たしかにしっとりとした食感が舌に感じる。
 うん、これもうまい。
「ん? これは?」
「あ、それはバターと砂糖だけのプレーンクッキーです」
 ちょっと待ってくださいねと秋子さんは台所に戻っていった。
「にぃちゃん、プレーンクッキーって?」
「……プレーンってのは簡素とかあっさりしたって意味だろ。
 薄力粉にバター、砂糖、卵、バニラエッセンスを入れただけ」
 秋子さんのことだから、それだけじゃないとは思うけど。
「まぁ、余計なものを入れていない、素材の味を楽しむクッキーってとこか」
「ふぅん……」
 説明を終えたとき、丁度秋子さんが姿を見せる。
「プレーンは砂糖を抑えてありますから、このジャムのを乗せて食べてくださいね」
 皿にちょんちょんと少量ずつ、秋子さんの手作りのジャムが並ぶ。
「それと、これ、新作のジャムです」
 ことん、とテーブルにジャムの入った瓶がいくつも置かれる。
 いつも食卓に並ぶものより、一回り小さい。
「……6個。新しいのが、6個、も」
 背中にいやな汗。
 あきらかにオレンジ色をしたジャムもあるんだが。
「おお〜、すげぇカラフル。これ全部秋子さん作ったの?」
「はい。趣味みたいなものですから」
 趣味……趣味かぁ……
「このクッキーに乗せて食べればいいんでしょ? んじゃまずオレンジのいただき〜」
 かぱりと蓋を開ける兎萌。
 地獄の蓋が開いた。
 ある意味そう形容してもおかしくはないはずだ。
「それ、あまり甘くないですよ?」
 ――それ、あまり甘くないですよ?
 ――あまり甘くないですよ?
 ――甘くないですよ?
「珍しいね。甘くないジャムなんて」
「う、うさ――」
「いただきま〜す」
 兎萌の口腔に消えゆく悪夢。
 俺はそれを見ていることしか出来なかった……
 許せ、兎萌よ。
「へぇ、甘くない。というかいい感じに甘酸っぱい。うん、ただ甘いジャムより何倍もうまいっす」
 え……?
「ふふ、そうでしょ? 近くに蜜柑の木を植えている方がいたんで、いくつか分けてもらったんです」
「橘さんが入ってたわけね〜」
「橘さんだなんて、兎萌ちゃん、そんな言い方よく知ってるわね?」
 ……ってことは、見たまんまのマーマレード?
 いや、果皮は入ってないみたいだから、オレンジジャムか。
「にぃちゃんも食う? 甘くないから大丈夫だと思うぞ」
「あ、ああ……」
 差し出された兎萌の食べかけのクッキーを口に入れる。
 さくさくと香ばしいクッキーに、すっと甘いオレンジの香りが鼻に抜ける。
 わずかに刺激的な酸味が、オレンジの甘みをより引き立てる。
 たしかに兎萌の言う通り、ただ甘いよりも、何倍も味に差があるように感じた。
「……うまい」
 ようやく、それだけ言えた。
 不意打ちのようなうまさだ。
 甘いものがだめな俺でも、抵抗無く食べられる。
 ……しかし、甘くなくてオレンジ色、というのは……
 どうしてもあのとき食べてしまったジャムを思い出してしまう。
 ジャムのどこをどうすれば、本能が味覚を否定するような独創的な味に仕上がるのだろう……
「次これ〜」
 兎萌は次のジャムの試食にかかる。
 薄いグリーンに、ぽつぽつと黒いごまのようなものが混ざっているジャム。
「……うん、これもあまり甘くないし、オレンジみたいに甘酸っぱいけど、また違う味わい」
「キウィフルーツで作ってみたけど、どう?」
「おいしい。これはなに?」
 別の瓶の蓋を開け、兎萌はくんくんと鼻を鳴らす。
「……これは……まるで一房いくらで叩き売りされていそうな……?」
「それ、バナナです」
「ば、バナナ? 初めて聞いた……バナナでジャムって出来るんだ」
 バナナジャムか……秋子さん、珍しいの作るよな。
 実際あるものだけど、俺はまだ食べたことはないし、どういうものかも見たことはない。
 ちょっと興味あるかも。
「うさ、俺にもくれ」
「ん? ああ、ちょっと待て……はい。落とすなよ」
 ジャムの乗ったクッキーを受け取る。
 兎萌は既にクッキーを丸ごと頬張ってもごもごと口を動かしている。
 匂い……はバナナだ。
 思いっきりバナナだ。
 少し、オレンジとラム酒のような香りもする。
「うまいでふ、あきこひゃん」
 兎萌が口にクッキーを入れたま喋り、ぐっと親指を立てる。
 それを見て俺も口にクッキーを運ぶ。
「……うん、うまい。バナナもいいな」
「次、次。ん〜、この紫色のジャムはなんだろうな……」
「紫ならブルーベリーとかラズベリーに……紫芋?」
「紫芋か……食いたくねぇ」
 俺もそれは食いたくない。
「ブルーベリーですよ。紫芋じゃありませんから、安心してどうぞ」
「うん、わかってる。にぃちゃんの戯れ言に付き合っただけ。んじゃ、いただき〜」
 ぱくりとクッキーを口に放り込む。
 いや、その前になんて言ったこら。
「うん。うまいうまい。ブルーベリー好き」
 言いながら次のジャムに取りかかる。
「ん〜、いい匂い。オレ初めて知った。栗って果物なんだな」
 栗!?
「いや、うさ、栗は果物じゃないんじゃ……」
「いえ、栗も果物に入るんですよ」
 うそ!?
 ……果物なのか、栗。
「堅果類って言って、クルミとかも入るんです。
 基本的に樹に成るものは果物で、草から生えるのが野菜、と言われています」
「そうだったんですか……秋子さん、物知りですね」
「ふふ……」
 嬉しそうに笑う秋子さん。
 高校生の娘がいるとは思えない仕草に祐一ちょっとどっきり。
「んん〜、まろ〜ん」
 兎萌はクッキーを頬張り、至福のひとときを過ごしている。
「栗はいいよな、栗は。果物だろうがなんだろうが、栗には関係ないさ〜」
 まぁ、兎萌はうまければそれでいいんだろう。
「さて、本日最後の新作ジャムは?」
 オレンジ、キウィ、バナナ、ブルーベリー、栗、と残るジャムはひとつになった。
 ……栗だけなんか異質だ。
 とりあえず俺は残ったジャムの瓶に視線を移す。
「……なにを使ったんですか、これ。なんだかイヤな色してますけど」
 瓶に入っているのは、クリーム色とでも言えばいいのか、少し濁った白色をしたジャム。
「白濁してるな」
「兎萌、そんな興味津々な目で見るな。というかどこと見比べてんだ」
「そこ」
「指さすな!」
 どこかは秘密。
「これは、ちょっと手に入れるの苦労しましたね……好き嫌いがはっきり分かれるものですし」
「で、なに使ったの?」
 兎萌は瓶の封を開ける。
「ドリアンです」
「くっさぁーーー!!」
 思いっきり無防備のままそのかほりを吸い込んだ兎萌が、投げ捨てるように瓶をテーブルに置く。
「うわ、ホントに臭い」
 離れている俺にまで臭ってくる。
「……そんなに臭いですか?」
 秋子さんは瓶に顔を近づけ、くんくんと鼻を鳴らす。
「…………。あぁ、ほのかにくさい」
 すでに嗅覚を破壊され尽くしていたようだった。
「でも、作ってたときよりは匂いませんよ?」
「鼻がバカになってるからだとオレは推測する」
 俺も。
「……味見してみましたか?」
「ええ。甘くておいしいですよ。さすが果物の王様と言われるだけはあります」
 そりゃこの臭さはキングと名乗ってもいいだけの破壊力はある。
「これ、いままで匂ってきませんでしたよ。いつ作ったんですか?」
「昨日みんなが寝静まったあとに作りました」
 魔女が釜をかき混ぜる絵が浮かんだ。
「……まぁ、匂いは鼻が曲がりそうにやばいですけど、味の方はいいんですよね」
「はい。もう、ばっちし」
 ばっちしですか。
「でも、にぃちゃん、甘いものだめだろ? ドリアンってすげぇ甘いって聞いたことあるけど」
 兎萌が鼻をつまみながら言う。
「もとが甘いので、砂糖はあまり使ってません。
 果物の甘さなら祐一さんも大丈夫だと思ったんですけど」
 たしかに、最初に出てきたオレンジやバナナといった果物は食えた。
 だからといって俺的に未知の果物はどうかと。
「にぃちゃん、ご〜」
「俺から!?」
「そりゃそうさ〜。秋子さんが、甘いのがだめなにぃちゃんのために作ってくれたんだから」
「はい。祐一さんの為に、甘すぎないように気を付けて、精魂込めて作りました」
 一言一句、じっくりと噛みしめるように秋子さんは呟く。
 くぅ……それは男冥利に尽きるってもんですが、ものがものだけにあんま嬉しくないです、秋子さん。
「しかしあれだな。匂いは別にしても、この色と粘性。にぃちゃんがためらうのもわかるぞ」
「……下ネタ厳禁だ」
「下……? あの、なんの話でしょう……?」
 秋子さんは不思議そうに、ホントに不思議そうに兎萌に尋ねる。
「ぅえ!? あ、う……その、なんだ、あの……」
 しどろもどろの兎萌。
 △秋子さんのバックアタック!
 △兎萌は回答に困窮している!
 こんな感じ。
「ま、まぁ、そんなことよりにぃちゃん食えよ、ほれ」
 ずずいっ、とドリアンジャムを俺の前に滑らせる。
 こんな慌てた兎萌を見るのも久しぶり……というか初めてか?
「下って……」
「うははははーーー! にぃちゃん食いねぇ食いねぇ!」
 一口大のプレーンクッキーにてんこ盛りに塗りたくる。
 対比1:3でジャムの勝ちだ。
「あ、あぁ……じゃ、いただきます、秋子さん」
「はい、どうぞ。まだありますから、兎萌ちゃんも食べてみてね?」
「うんうん」
 兎萌からクッキー付きジャム(表現としては間違っていないはずだ)を受け取り、口に運ぶ。
 ぶわぁっ、と異臭が鼻腔を突き抜けた。
「……俺、果物がこんな異臭放つものだとは知らなかった」
 噛みしめるたび、口の中がドリアンに犯されてゆく……
 噛みしめるというか舌にからみつくというか。
 兎萌のおかげでジャムしか食ってないような感じだ。
「……うまいか?」
「……いやもう、そんな簡単な言葉じゃ表現出来ない」
 ドリアンの濃厚な甘み。
 だけどそれは自然な甘さで、匂いさえ無視すれば素晴らしく上等。
「うまいのか……意外すぎる」
 たしかに意外なんです、兎萌さん。
 こんな異臭放つジャムを、だれがうまいと思うよ。
「んじゃオレも食ってみる」
 ひとすくいのジャムを手の平に乗せ、ぺろりと舐める。
「……失敗した。手に乗せてどうする……くっさいんすけど」
 ごしごしと布巾で擦りまくる兎萌。
「でもうまいなぁ……ドリアン……」
「ふふ……おいしいでしょう? ドリアンは独特の匂いはありますが、甘さは逸品ですからね」
 秋子さんはそう言いながらクッキーにちょんとドリアンジャムを乗せる。
「……うん、おいしいですね」
 もぎゅもぎゅと頬張りながら微笑む秋子さん。
「も少しもらい〜」
「俺は……もういいや。なんか腹一杯」
「そうか。んじゃにぃちゃんの分も食ってやろう」
「晩飯食えなくなるぞ」
「だいじょぶさ〜」
 根拠はどこに?
「ん〜、なんか匂いも気になんなくなったら、さらにうまく感じるな〜」
 まぁ、この環境に長時間いれば嗅覚死んでもおかしくないけど。
「あっ……と。すいません、こぼしちゃいましたね」
 秋子さんが手の平に落ちたジャムを舐め取る。
 床にも少しこぼれている……しばらく匂いが取れないと思うんだけど、そこ。
「……秋子さん、手に持ったままそんなことしてると顔にジャム付くよ?」
 兎萌の忠告も虚しく、べたりと秋子さんの鼻先にジャムが付く。
 ……というか、兎萌が声をかけたからそうなったんだと思うんだが。
「……べたべたですね」
 それを見た兎萌が『うっ』と声を上げる。
「うさ? どうかした――」
 うっ。
 
 
 
 
 
 ――なにがあったのかは、推して知るべし。
 
 
 
 
 
「あれは……反則だ」
「……まぁ、反則というか、男の俺には至福ダメージ9桁オーバーなんだが」
「にぃちゃんの××スキーめ」
「違うわ!」
「すけべぇ」
「……それは否定できんが。……そういや、なんでうさが悶えてんだよ」
「趣味だ」
「……趣味か」
 
 
 
 
 


あとがけ

最後のほうツッコミ不可深読み可
このネタは使い古されてるだろうなと思いつつ、お約束として
ジャムの色とか匂いもツッコミ不可ですよー

このお話しは2話にあったものですが、没になったためこの部分だけ書き出しました
ですから内容が単調単調
水瀬家+1の日常ということで
でもこれ、短編という位置付けにしてますが……連載に移動してもいいかな
一応1話完結で進めてますけど

SS index 2002/09/25