月に叢雲、花に風

ありふれない日常編〜夏の渚は天使が一杯〜
後編





栞と心温まる会話を交わした後、

俺の肢体に絡みつくような栞の視線から逃れるように浜辺で戯れる皆に視線を向ける。

其処では名雪、香里vs舞、佐祐理さんの四人があゆを審判にしてビーチバレーをしていた。

それにしても…、あゆに審判が勤まるのか?

案の定、俺の考えを肯定するかのように、

あゆは、うぐっ!!うぐうっ!!と目まぐるしく左右に移動を繰り返すボールを目で追うのがやっとのようで、

とても審判の責務を果たしているとは言い難い。

…まあ、お遊びだから良いのか。

取り合えず、そんなあゆの事は如何でも良くて。

浜べでボールと戯れる美女が四人。

そして、彼女達の動きと共にユサユサとゆれる胸の膨らみ。

…良いね。

夏だね。

夏真っ盛りだね。

滅多に見られないこの光景を確りと網膜に焼き付けないとね。

そして、そこから少し離れた場所では、真琴と美汐が砂でお城を作っていた。

小さな子供のようにはしゃぐ真琴と、それを母親のように見守る美汐。

うむ、美汐、見事なまでにおばさんくさいぞ。

ここで美汐がキャッキャとはしゃいでいたら、流石に違和感があるからな。

その何処か安心感を覚える光景に一人うんうんと頷いていると、

「祐一さんも皆と一緒に遊ばれたら如何ですか?」

不意に、隣に座る秋子さんに声をかけられた。

「え…?ですが…」

そう、名雪達には俺は強い日差しの下には長時間出られないと言ってある。

「大丈夫ですよ、皆さんも祐一さんと一緒に遊びたいんです。

そんな事を気にかけてる人はもう一人も居ませんよ。

上着を脱ぐ事が出来ませんから、少々暑いかもしれませんが」

そう言って秋子さんは優しく微笑む。

「そう…、ですね。

折角海に来たんですからね。

俺も、少しは楽しんでも罰は当たりませんよね」

そう言って立ち上がる俺に秋子さんは優しく頷き返す。

その頷きに俺も微笑を返し、浜辺で戯れる天使達の輪の中に飛び込んで行くのだった。

「お〜い、俺も仲間に加えてくれ」

俺の言葉に皆が振り返り、そして俺の元に殺到してくる。

「相沢君、この炎天下の下に出てきて大丈夫なの?」

流石は学年主席の香里。早速そう聞いてきた。

しかしそれは、訝しむ訳ではなく、純粋に俺を心配しての事。

「ああ、少しぐらいなら大丈夫だよ。上着を脱げないから少し熱いけどな」

俺は肩を竦めつつ答える。

香里も苦笑いを浮かべるだけでそれ以上聞いてくる事は無かった。

「じゃあ祐一、何して遊ぼうか」

先ほどまで遊んでいたボールを抱えて名雪が聞いてくる。

「そうですね、相沢さんの事を考えるとあまり激しい運動は出来ませんね」

この暑さにもかかわらず上着を着込んでいる俺を見上げて美汐が呟く。

「うむ、流石は美汐、なかなかおばさんくさい発言だ」

美汐の言葉にもはやお約束と化した言葉を返す。

「失礼ですね、気配りが良いと言って下さい」

俺の言葉に反論を返す美汐も、その表情には微かに微笑が浮かんでいた。

「あはは〜、でしたらスイカ割など如何ですか〜」

胸の前で手を合わせ、妙案です〜とばかりに佐祐理さんが皆を見回す。

「スイカ割、相当に嫌いじゃない」

佐祐理さんの言葉に頷き返し、既にやる気満々の舞。

「スイカ割ですか、それでしたら私にも出来そうです」

そう言って栞も頷く。

しかし…、栞の運動オンチは筋金入りだからな。

最初の、目隠しをしてその場で回転しただけで、それだけでその場にへたり込んでしまいそうだ。

「うん、スイカ割だったらボクにも出来そうだよ」

「そうですね、スイカ割でしたら皆さんで楽しむ事が出来ますね」

あゆも美汐も佐祐理さんの案に反論は無いようだ。

ただ真琴だけが、一人難しそうな顔をしていた。

「如何かしたのですか、真琴?」

その様子に気付いた美汐が真琴の顔を覗きこみ尋ねる。

「う…あぅ…」

真琴は最初少し口篭った後、

「スイカ割って…何?スイカを割るのが、何で楽しいの?」

真剣な表情でそう聞いてきた。

…………

「真琴、スイカ割と言うものはですね…」

その説明は美汐に任せる事にして、

俺は必死に笑いを堪えながらスイカ割の準備に取り掛かるのだった。

そして、佐祐理さんのお蔭でスイカも無事に手に入り、

トップバッターあゆでスイカ割は開催された。

「じゃあ、あゆ、目隠しをするぞ」

俺はあゆの背後に立ち、あゆに目隠しをする。

「うぐぅ…何も見えない…」

当たり前だ、見えたら目隠しの意味が無い。

「ようし、じゃああゆ、10回転してくれ」

俺の言葉に頷き、あゆがその場でグルグルと回り始める。

『い〜ち、に〜い、さ〜ん……』

あゆの回転にあわせ皆がその回数を声を揃えて口にする。

『……な〜な、は〜ち、きゅ〜う、じゅ〜う!!』

皆が声を揃えて十を言い終え、あゆがスイカに向けて一歩を踏み出す。

踏み出すのだが、その一歩は目を回したのかふらふらと頼りなく、

そして既にあゆはスイカの方向とは全く違う明後日の方向に向けて歩き始めていた。

「あゆちゃ〜ん、もっと右だよ〜」

「月宮さん、もっと左よ」

「あゆあゆ〜、全然違うわよ〜、左斜め後ろよ〜」

「あゆさん、もっと右です」

「………右」

「あゆさ〜ん、あと右に三歩半ですよ〜」

皆があゆをスイカ目掛けて誘導する。

一部、ダミーも混ざっているが。

あゆは一人一人の言葉に「うぐっ!!うぐっ!!」と律儀に反応し、

そして声が聞こえるたびにその場でオロオロとしている。

右へ左へと右往左往するあゆ。

………おもしろい。

そして、とうとうあゆの頭はオーバーヒートを起こしたのか、

「う〜ぐ〜〜〜」とその場にへたり込んでしまった。

俺はあゆに近づくと目隠しを外してやる。

「残念だったな、あゆ」

あゆは頭をふらふらとさせながら俺に振り返る。

「うぐぅ…ボクには難しすぎるよ…」

その言葉を最後に、あゆはコテンとその場に横たわるのだった。

そのあゆを名雪に預け、俺は次のチャレンジャー、真琴の背後に立ち目隠しをする。

「あうう…何も見えない…」

目隠しの違和感に頭を振りながら真琴が呟く。

だから、あゆと言い真琴と言い、見えたら目隠しの意味が無いっての。

そんな真琴を見ていると、ふと俺の中の悪戯心がムクムクと頭を擡げた。

「いいか、真琴。スイカ割のコツは、最初の回転を如何に素早くするかにかかってるんだぞ?」

真剣な言葉で、真琴の耳元で囁く。

「あう?そ、そうなの?」

その思いがけないアドバイスに、真琴は耳を欹てる。

俺は笑いそうになるのを必死に堪え、努めて冷静に声をだす。

人を騙すには、どれだけ冷静で居られるかが重要なポイントだからな。

「ああ、そうだ。如何に素早く回転を済ませるかが、スイカ割の必勝法だ」

素直な真琴は俺の言葉にうんうんと頷く。

「わかった。見てなさいよ、真琴が一撃でスイカを割ってあげるんだから!!」

決意も新たに意気込む真琴の後姿を、笑いを必死に堪えて見送る。

そして、定位置に付いた真琴が、俺の言葉を信じて疑わない真琴が、

物凄い速さで回転を始めた。

それはもう、皆が『い〜ち…』と言った時には既に五回転目に突入するほどに早かった。

そして、言葉も無くしその様子を唖然と見ていた皆の前で、

サービス精神旺盛な真琴が十回転どころか十三回転目に突入し、

そして………

倒れた。

「あ゛う゛〜〜〜」呻き声を洩らしながら、ズシャァ!!と、盛大に。

きっと今真琴の目隠しを外したら、真琴の目はぐるぐるの渦巻きになってる事だろう。

俺はその真琴の馬鹿素直さに爆笑しそうになるのを必死に噛殺す。

「…相沢さんですね、真琴に妙な事を吹き込んだのは」

美汐がそんな俺の傍に立ち、咎めるような視線で呟く。

「い…、いや?お、俺には何の事だか?」

俺は噴出しそうになるのを必死に堪え、美汐の言葉を否定する。

「……はぁ。相沢さん、言葉が上ずってますよ」

が、しかし、呆れたような溜息と共に一言。

美汐にはしっかりばれているようだった。

まあ、当たり前だな。

俺は美汐の視線から逃げるように真琴に駆け寄ると、

今だ「あ゛う゛〜〜〜」と唸っている真琴を助け起こす。

「良くやった真琴、中々見事な倒れっぷりだったぞ」

そう言いながら俺は真琴の目隠しを外す。

「あ゛う゛う゛…、ゆ、祐一…騙したわね…」

ふらふらと焦点の合わない目で真琴が俺を睨む。

「何を言うか真琴、お前は重大な役目を果たしたんだぞ。皆の笑いを取ると言う、重大な役目を」

俺はそんな真琴の手をギュッと握り締め、

まるで今正に息絶えようとしている戦友を見取るかのように話しかける。

「ぜ…絶対に…ゆる…さ…ない…あぅっ」

最後の言葉と共に真琴がガクッと項垂れる。

俺は戦友(真琴)に黙祷を捧げると、その亡骸を美汐に預け、

必ず敵を取ると心に誓いつつ、非常なる戦場(スイカ割)へと戻るのだった。

さて、次のいけに…挑戦者は誰かなっと…。

ぐるりと皆を見回す俺と栞の瞳が、ばったりとぶつかった。

ニタ〜、と笑う俺。

う、うふっ、と苦笑いを浮かべる栞。

けって〜い。

栞、君に決めた〜。

「さて、栞」

「あ、私アイス買ってきます」

俺が声をかけるや否や、即座にその場所から逃げ出そうとする栞。

が、俺がむざむざとそのまま逃がす筈も無く、

「しっおり♪」

ガシッと、栞の頭を掴む。

「えうっ!!」

頭を掴まれた栞が妙な叫び声を上げる。

「さあ、栞。

アイスなら後でた〜っぷり食べさせてやるからな」

俺は栞の背後に回ると有無を言わせず目隠しをしようとする。

「え、えう〜!!誘拐犯です!!犯されます〜!!」

そんな俺の手から逃れようと栞がバタバタと暴れだす。

そんな栞の言葉を、はいはい、と軽く流していると、

「相沢君」

と、栞の姉、シスコン香里から声をかけられた。

「お、お姉ちゃん!!」

地獄に仏とばかりの栞の声。

「………」

俺は無言で香里の次の言葉を待つ。

「目隠しは、手加減無く確りとね」

ニッコリと、素敵な笑顔と共に、香里はそう言い放った。

「おっけ〜♪」

あの姉の、シスコン香里の許可を得たのだ、もう何も気兼ねする必要は無い。

香里、おぬしも悪よのう。

「おっけ〜♪じゃないです〜!!

ああっ!!そんな、有無も言わさずに目隠しを!!

えう〜〜〜、本当に何も見えません〜〜〜(涙)」

だって目隠しだからな。

「さ、栞、諦めてスイカを割ってくれ」

そして俺は栞に棒を渡す。

「えぅ…そんな事する人嫌いですぅ」

そんな事を言いながら、しかし諦めたのか、栞がその場で回転を始めた。

一回…二回…三回…。

そして、四回目に差し掛かったその時、フラフラッと、栞はその場にへたり込んだ。

俺は座り込んだ栞の傍に屈みこむ。

「も、もう駄目です〜。

これ以上は、私には出来ません〜」

ほんの三回転しただけなのに、既に栞は息も絶え絶えになっていた。

俺は栞の目隠しをそっと取り外す。

「祐一さん…私、笑ってましたか?

最後まで、笑っていられましたか…?」

栞が、笑顔を浮かべた栞が俺を見上げ聞いてくる。

俺は、精一杯の微笑を浮かべて微笑んだ。

「よかった…です…」

その言葉を最後に、栞はゆっくりと瞼を閉じるのだった。

俺は栞をお姫様抱っこで抱き上げると、香里の元に運ぶ。

そして、そのあまりに軽い栞の体をそっと香里に預けた。

「鬼…ね」

笑顔で語りかけてくる香里。

「香里も…な」

だから俺も、笑顔で香里に言葉を返し、そしてそのままその場を後にするのだった。

「えうぅ…、こんな事する祐一さんとお姉ちゃんなんて嫌いです…」

と言う栞の呟きを、俺達の尊い犠牲となった栞の呟きを背中に聞きながら。

さて、お笑い三人組のお蔭で十分楽しむ事は出来たから、

そろそろ本格的にスイカ割に取り掛かる事にしよう。

俺は残ったメンバーを見渡す。

まだスイカ割にチャレンジしてないのは、名雪、香里、舞、佐祐理さん、美汐、の5人だ。

う〜む、香里や舞は何の問題も無くスイカを割ってくれるだろう。

名雪と佐祐理さん、美汐の三人も割りと平然と成功させそうだ。

さて、誰にしようか。

誰を選んでもスイカを割ってくれそうだが、しかし少しは捻りが欲しいところだ。

ん〜〜〜っと、と考えながら何気なく視線を巡らす。

………居た。

俺の視線の先に、取りを務めるに最適の人物が。

その人物とは、俺達の事を微笑ましげに見守っている人、秋子さんその人だ。

そうと決まれば善は急げ。

俺は秋子さんを誘うためにその場に駆け寄った。

「あら、如何されたんです、祐一さん?」

秋子さんが微笑みと共に尋ねてくる。

「いえ、秋子さんにも是非スイカ割に挑戦して貰おうと思いまして」

俺はそう言いながら棒を差し出す。

「あらあら、私は良いですから皆さんで楽しんでください」

しかし案の定、秋子さんは遠慮がちにそう断ってきた。

「いえ、是非秋子さんにも参加して欲しいんです。

皆、秋子さんとも一緒に遊びたいんですよ。

それとも、秋子さんは俺達と遊ぶのは嫌ですか」

だが、それは十分に予想の内だったので、俺は殆ど反則に近い言葉でもう一度秋子さんを誘う。

秋子さんは俺の言葉に最初戸惑いの表情を浮かべ、

しかしそれは直ぐに何時もの穏やかな微笑みに変わった。

「ふふふ…、祐一さん、その言葉は反則ですよ?

私が皆さんと遊ぶのを嫌がる筈が無いじゃありませんか」

そして秋子さんはそう答え腰を上げると、皆の待つ場所に歩き始めるのだった。

「じゃあ秋子さん、目隠ししますね」

俺は秋子さんにそう声をかけ目隠しをする。

「お手柔らかにお願いしますね」

俺の言葉に、少しずれた返事を返す秋子さん。

そして、目隠しも終わり俺が傍から離れると、秋子さんがその場でくるくると回り始める。

一回、二回、

軽やかに回る秋子さん。

九回、十回。

その回転が終わった時、偶然なのか秋子さんは真っ直ぐスイカに向かって立っていた。

そして、秋子さんは何の迷いも無くそのまま足を踏み出していく。

周りから聞こえる、右〜、左〜、と言う言葉に惑わされる事も無く、

まるで目隠しをされてないかのように、秋子さんはスイカ目掛けて一直線に歩いていく。

そして、「えいっ」というあまり迫力の無い掛け声と共に、

パコンッと、秋子さんの振り下ろした棒は見事スイカに命中するのだった。

そのあまりに鮮やか過ぎる秋子さんの動作に、俺も含めた皆の動きが止まり、ただ唖然と秋子さんとスイカを見詰めている。

急に静まり返った浜辺に、「あらあら」と秋子さんの全然困ったようには聞こえない困った声だけが響いていた。



その後も、俺達は和気藹々と夏の海を堪能し、

そしてそのテンションのまま、夕食という名の大宴会、いや、乱痴気騒ぎへと突入していた。

その様子は、あえてここでは割愛させていただく。

まあ、以前の俺達の騒ぎようを見ていただければ、自ずとその光景も思い浮かべる事が出来るだろう。

俺は酔いつぶれた皆を残し、一人浜辺へと来ていた。

夜の闇に佇む海。

煌々と輝く月に照らされる海は、幻想的なまでに美しかった。

ここは佐祐理さんのプライベートビーチ。

周りに人影は無い。

そして、人が訪れる心配も無い。

………海、入ろうかな。

目の前には、幻想的なまでに美しい海。

聞こえてくるのは、永遠に繰り返される漣の音。

俺は、ううん、私は、何時しかその光景と音に誘われるように、

身にまとう物を全て脱ぎ捨て、母なる海にその身を漂わせていた。

私は仰向けに身を浮かべ、穏やかな波に身を任せ、ただじっと夜空に浮かぶ月を眺めていた。

綺麗な…月…。

今更ながらに気付いたけど、今日は満月なんだね…。

白い、光が、

優しい、光が、

海と、そして私を照らしている。

その月は、私を優しく包むように輝く月は、

まるで私の心に光を届けてくれた人、祐一のようだった。

そう、まるで祐一みたい…。

こんなにも私を温かく照らしてくれるのに、でも、私の手は、決して其処には届かない。

決して手の届かない所にある、月。

決して手の届かない所に行ってしまった、祐一。

本当に、良く似てる…。

夜空に浮かぶ月が祐一なら、私はさしずめこの水面に映る偽りの月。

キラキラと輝いているけども、それは全て月の光を反射した水明かり。

自らが輝いてるわけでは無い。

鏡のように寸分違わずその姿を映しているけども、でも、ほんの些細な細波だけで、

その姿は、醜く歪んでしまう。

ユラユラ…ユラユラ…と

ほんの些細な細波だけで、その姿は、見る影も無く歪んでしまう。

ほんの些細な細波でそうなるのならば、もし、とても大きな波が来たらどうなるのだろう。

そんな事、解りきってる。

跡形も無く、消えてなくなるだけ。

何も、残さずに…。

本当に…良く、似てる…。

この…私と……。

でも、この海に浮かぶ月は、水面に浮かぶ月は、波が収まればまたその姿を現すことが出来る。

だが、私は如何だろうか。

もしも大きな波がこの身を襲ったなら、私はどうなるだろうか。

その波が引けば、また祐一として存在する事が出来るのだろうか。

祐一として生きて行く事が出来るだろうか…。

それも…解りきってる…。

そんな事、出来る筈が無い…。

一度歪んだ姿をまた綺麗に戻せるほど、私は強く出来てなど無いのだから。

だから、そうならないように必死に隠し続けてるのだから。

たった一度でも、歪みが生じてしまったのなら、私は跡形も無く消えてしまうだろう。

祐一としての私だけでなく…、祐璃としての私も……。

ザザァン…

ザザァン…

目に映るのは、夜空に浮かぶ満天の星空。

私の耳には、耐える事の無い波の音だけが聞こえてくる。

全てを脱ぎ去り、ただ波の揺らめきに身を預けるだけの今は、

こんなにも心地良い…。

まるで、優しい母の腕の中に抱かれているかのように。

ふふ…。

思わず笑いが零れた。

だって私には、優しい母の腕の中の思い出など、ありはしないのだから。

私は全てを忘れるかのように、そっと、瞳を閉じた。

全ては闇に包まれ、私はただ、その闇の中に身を漂わせる。

いっその事、このまま永遠にこの何も無い闇の中を漂う事が出来たらいいのに…。

何時までも、何時までも、ユラユラ、ユラユラ、と……。

痛みも、しがらみも、過去も、未来も、一切が無い闇の中。

でも、今の私には、その闇がとても心地よい場所に思えた。

全て何も無い、『私』と言うものすらない、その闇の中が。

でも…まだ駄目…。

私は、まだ闇に身を投じる事は出来ない。

何故なら、彼女達が居るから。

心に深い傷を負った彼女達が居るから。

まだ祐一の助けを必要としている彼女達が居るから…。

だから私は、まだ『祐一』を止める事は出来ない。

彼女達の為に、そして、祐一の為に…。

でも、何時の日か、彼女達が助けを必要としなくなった時、

祐一を、ううん『私』を必要としなくなった時、

その時私は、一体どうなってしまうのだろう。

誰からも必要とされなくなった、この世に存在してない筈の私は、

一体、どうなってしまうのだろう……。

……それも、解りきってる。

この水面に映る月のように、ユラユラ、ユラユラと身を歪めていき、

そして何時しか、その歪みに『私』という存在は壊れてしまい、

跡形も無く消えてしまうだけ。

そのまま二度と『私』というものを形作る事無く、永遠に…。

そう…泡沫の、夢のように……。

私は、ゆっくりと身を起こした。

幸か不幸か、まだ足は付くようだ。

立ち上がった私の頬を、水滴が一つ、滑り落ちた。

果たしてそれは、波の雫か、それとも……。

「………帰ろう」

私は誰に言うでもなく、一人呟く。

凄く、物凄く名残惜しかったけど、私はまだ、帰る所があるから。

私を待つ人が居るから。

帰らなければいけない場所が、あるから。

今は、まだ。

私は思いを振り切るように振り返り、

そして振り返った先の光景に、目に映った光景に驚きのあまり息を呑んだ。

何故なら、砂浜に人影が、一つの人影が立ちこちらをじっと伺っていたのだから。

私はすぐさま身を屈め、海の中にその身を隠した。

だが、今更そうした所でもう遅すぎる。

そこに脱ぎ捨てられた服から、今海に入っているのが私だというのは明白だろう。

そして、今砂浜にたっているのが誰であれ、このまま立ち去る事はしない筈だ。

きっと、私を、祐一を待ち続ける筈。

心弾ませ待ち続ける祐一が、偽者だとも知らずに。

私は、私の体は、知らず知らずのうちに震えていた。

小さな子供のようにガタガタと震えていた。

水面に浮かぶ月は、細波を受けただけで姿を歪ませる月は、

大きな波を受けた時、その時は……。

私の頭の中は色々な思いが渦巻き、如何すれば良いかも解らず、

ただ震え続けることしか出来なかった。

その私の耳に、優しい声が聞こえてきた。

「祐一さん、いえ、祐璃さん。

心配しなくても大丈夫ですよ。

私、です。

秋子です」

その言葉に、その言葉を耳にした途端に、私の体から力が抜け落ちていく。

「ごめんなさい、驚かせてしまいましたか?」

秋子さんの申し訳なさそうな声が聞こえてくる。

本当に、驚きましたよ、秋子さん。

ええ、心臓が止まるかと思いました。

私は心の中で呟きながら、ジャバジャバと波を掻き分け秋子さんの下に歩み寄っていく。

砂浜に上がった私を、バスタオルを差し出しながら秋子さんが迎えてくれた。

「本当にごめんなさいね。

最初は直ぐに声をかけようと思ったんですけど、

波間に浮かぶ祐璃さんの姿が、

月明かりの下に佇む祐璃さんの姿が、余りに美しかったものですから」

そう言って、ニコニコと微笑みながら秋子さんはバスタオルを差し出す。

私はその言葉に何も答える事が出来ず、無言でバスタオルを受け取ると、

ゴシゴシと少し強引に髪を滴る水滴を拭い去った。

「それに…」

呟く秋子さんの声のトーンが下がるのが解った。

まるで、言い難い事を口にするかのように。

「それに、そのまま声をかけたら、

揺らめく波の中に佇む祐璃さんの姿が、

そのまま…、何故だかそのまま………」

其処までを口にして、そして言い淀む秋子さん。

しかし、私にはその後に続く筈であろう言葉が解った。

それは、私も思ってた、ううん、私が願ってた事だから。

「そのまま消えてしまいそうでしたか?」

秋子さんの言葉を、少し自虐的な含みの入った声で続ける。

「っ!!」

私の言葉に、秋子さんが言葉を呑む。

私はバスタオルを頭から被っているので確認できないが、

きっと今秋子さんは、驚きと後悔と、そして悲しみの入り混じった顔をしてる事だろう。

秋子さんは、優しい人だから。

そして私達は、そのまま言葉も無く浜辺に佇んでいた。

降り注ぐ月明かりの下、

波の音しか聞こえない、

静かな、

砂浜で。

…失敗、したな。

こんな事言うつもりは無かったのに。

私は後悔の念に包まれながら、「帰りましょう、秋子さん」そう、口を開こうとした。

開こうとしたその瞬間、私の体は温かく柔らかい、

まるで海の中に居るかのような感触の中に、そっと包み込まれていた。

私を包み込んでいたのは、秋子さんだった。

私を包み込む秋子さんは震えていた。

何かを恐れるかの様に震えていた。

震える体を誤魔化すように、ギュッと私の体を抱きしめていた。

「消えたりなんか…、しませんよ。

祐璃さんが消えるなんて…、そんな事あるはず無いんです…。

祐璃さんはずっと…、ずっと私達と一緒に暮らすんですから…。

私と一緒に…暮らすんですから…。

消える筈なんか無いんです…。

消えたりしたら…許さないんですよ……」

震える体で私を抱きしめる秋子さん。

私の体に、ポツ、ポツ、と熱い雫が落ちる。

温かい……

そして何て心地良いんだろう……

きっと、母親の腕の中って、こんな感じなんだろうな……

私は秋子さんの腕の中、夜空に浮かぶ月を見上げながらそんな事を考えていた。

こんなに近くに、私の身を委ねる事の出来る場所があったんだ……。

そんな事を…考えながら……



終り









gift index 2003/02/20