Kanon SS



血塗られた螺旋の絆
第二一話



「相沢、さん……?」

戸惑いのこもった声で美汐が俺の名を呟く。

俺の手が美汐の肩を掴んでいるから。

まるで美汐を、そのカラダを逃がすまいとするかのように。

その俺の手と俺の顔との間を、美汐の不安気な視線が行き交う。

強く掴まれた肩、初めて見る俺の表情、それは美汐の不安を掻き立てるには十分すぎるものだった。

だが、それでも美汐は俺の手を振り払う事は、その場から逃げ出す事はしない。

行き交わせていた視線を止め、不安気な表情を浮かべつつも、じっと俺の顔を見上げている。

しかしその瞳に不安はあれども不信は無い。

瞳の奥にあるのは俺へと向けられた確かな信頼。

俺が美汐に危害を加えるとは、俺が美汐を穢すなどとは微塵も考えてない瞳。

そこに理由と言うものは無く、ただ無心に、子が親を信じるように、純粋な信頼だけが存在している。

その美汐の瞳が俺の理性に歯止めをかける。

だが、それ以上に、俺のドス黒い欲望に拍車をかける。

その瞳を汚してしまいたいと、その瞳を俺だけの物にしてしまいたいと、

押さえきれない衝動が俺の中で渦巻き始める。

美汐を壊し、美汐を穢し、美汐を俺で満たし、俺を美汐で満たしたいと、

俺の中で欲望が膨れ上がる。

「相沢さん……」

俺の顔を見詰め俺の名を呟く美汐。

名を呼ばれる、ただそれだけの事で俺の中の欲望が更に膨れ上がっていく。

「……っ!」

美汐の顔が苦痛に歪む。

俺の手が、指が食い込むほどに美汐の肩を掴んでいるから。

その苦痛の表情に俺の理性は悲鳴をあげ、そして欲望は歓喜の声を上げる。

早く美汐の肩から手を離さねばと思う一方で、

このまま力のままに抱きしめて無茶苦茶にしてしまいたい衝動に駆られる。

ギリ……。

更に増す腕の力。

更に増す苦悶の色。

それでも、美汐は、俺の手を振り解こうとは、俺の前から逃げようとはしない。

俺の今の状態は明らかに異常であるのに、美汐もそれには気付いている筈なのに、

なのに美汐は俺の前から逃げようとはしない。

ただ真っ直ぐに俺の顔を見詰めている。

逃げて欲しい。

逃がしたくない。

理性と欲望、せめぎ合う二つの心。

しかしその均衡は既に大きく崩れ始めている。

膨れ上がる欲望、それを抑えるべき理性はあまりにも微弱だ。

空いていたもう一方の俺の手がゆっくりと持ち上がり、

「…………」

空いていたもう一方の美汐の肩を掴む。

美汐はその動きをゆっくりと目で追い、俺の手が自分の肩を掴むのを見届けるとまた俺の顔へと視線を戻す。

その表情には何か決意の様な色すら見えて、やはり俺の前から逃げるような素振りは見せない。

俺の残り少ない僅かな理性は美汐に逃げてくれと訴えるが、

俺の中で膨れ続ける欲望は美汐を逃がすまいと肩を掴む。

美汐が俺の前から逃げ出してくれれば、俺は最後の理性を振り絞りこちら側に踏み止まる事が出来るのに、

美汐が俺の前から逃げ出してくれないから、俺の欲望は際限なく膨れ上がり今にも境界線を踏み越えてしまいそうになる。

ならばせめてと、この俺を止めてくれる第三者の登場を願うが、

夕日に染まる校舎内はまるで俺達二人しか居ないかのように静かだ。

そして俺は、心のどこかでその事に歓喜の声を上げている。

俺達二人の間に邪魔者が入らないという事に。

真っ直ぐに俺の目を見詰めてくる美汐。

その瞳の奥には今も尚、俺へと向けられる信頼の色が見える。

いや、それは信頼と言うよりもむしろ俺に全てを委ねるように、

俺がしようとしている行為を自ら望んでいるようにすら見える。

俺に残された理性は本当に僅かなのだろう、俺の中の欲望が美汐の心を都合の良いように映し始める。

だから穢してしまえと、

全てを奪ってしまえと、

滅茶苦茶に壊してしまえと、

美汐自身が、自ら望んでいるのだからと。

まるで狂言の様な理屈が抗いようの無い欲望となって俺の中に渦巻き始める。

「相沢さん」

澱みなく俺の名を呼ぶ声。

真っ直ぐに俺を見詰めてくる瞳。

その声が綺麗だから、

その瞳が真っ直ぐだから、

だから俺は、美汐を壊してしまいたくなる。

美汐が俺を信じるから、

美汐が俺を求めるから、

だから俺は、美汐を穢してしまいたくなる。



だから俺は…………



美汐の体を…………



突き飛ばした…………



「きゃっ!!」

急に両肩を強い力で押されその場に尻餅を付くように倒れてしまう美汐。

その時漏れた美汐の短い叫びに俺の心は痛みを覚えるが、俺は美汐を姿を自分の視界から消す。

何故なら、俺は心に痛みを覚えつつ、それ以上に喜びを覚えていたから。

「はあ……はあ……はあ……」

俺は両膝に手を付くと激しく肩で息をする。

まるで激しい運動をした直後のように俺の呼吸は乱れていた。

そんな荒い呼吸をしてしまうほどに、俺の心は乱れていた。

「あいざわさ」

「呼ぶな!!」

俺の名を呼ぼうとする美汐の声を激しい口調で遮る。

「っっっ!」

その声に驚いたのだろう、美汐が身を竦める気配が伝わる。

だが、それで良い。俺に怯え、俺の前から逃げてくれれば良い。

美汐の前に居る俺は、その驚きの気配にさえ喜びを感じ始めて居るのだから。

「あいざ」

「呼ぶなと言ってるんだ!!」

今一度呼ぼうとする美汐の声を先程よりも大きな声で遮る。

今まで美汐の前では一度も出したことの無い声だ。

「…………」

怯えか動揺か、倒れた状態のまま押し黙る美汐。

それでいい。後は俺が帰れと言えば、美汐が俺の前から居なくなればこの場をやり過ごす事が出来る。

その後どうなるかなんて知った事ではない。

今はとにかく美汐の存在を俺から遠ざける事が出来ればそれで良い。

そうすればこの渇きを、欲望を、押さえ込む事が出来るかも知れないから。

例えそれが出来なくても、美汐を壊さずにすむ事が出来るから。

「……帰れ」

低く押し殺した声で美汐に言い放つ。

別にそれを意識している訳ではなく、そうでもしないと声を出す事が出来ないのだ。

「……えっ?」

何を言ったんですか? まるでそう尋ねるかのような呟き。

良く聞き取れなかったのか、それとも理解できなかったのか、それは解らない。

解らないが別にそれはどちらでも良い。

次はただ先程よりも強く拒絶の言葉を吐き出すだけだ。

「帰れと、言ったんだ」

俺がこの場に、こちら側に踏み止まっていられるうちに。

頼むから、俺の前から逃げ出してくれ。

俺は自分の欲望を押さえ込むだけで精一杯だから。

だから、早く……

「どうして……ですか……」

しかしそんな俺の願いも空しく、美汐はその場から立ち去ろうとはしない。

泣き出しそうなほどにか細い声で縋るように尋ねてくる。

「どうして……」

「喋るな!! 何も言わず黙って帰れ!!」

その声だけで俺はどうにかなってしまいそうだから。

美汐を傷つけてしまいたくなるから。

「私……は……」

それでもなお、何事かを言おうとする美汐。

だから俺は美汐を傷つけなければいけない。

美汐を傷つけたくないから、だから俺は美汐を傷つけなければならない。

「はっきり、言わないと、解らないのか?

俺の前から、居なくなれと、そう、言ってるんだ」

途切れ途切れの声でそう言い放つ。そうでもしなければ言葉を紡ぐ事が出来ないから。

すぅ、と、美汐が息を呑む。

俺の言葉に、息を呑む。

それは、拒絶の言葉だったから。

俺が始めて美汐に向けた、美汐を拒絶する言葉だから。

人を恐れる美汐が、俺の知る限り唯一心許した人間、つまり俺の口からもたらされた拒絶だから。

それがどれほどまでに美汐の心を傷つけるか、俺はその事を誰よりも理解している。

それでも俺は美汐を拒絶しなければならない。

例えその事で俺と美汐の関係が壊れてしまったとしても、

美汐が壊れてしまう事に比べれば些細な事だと言えるのだから。

だから早く……

「…………」

はっきりと言い放たれた拒絶の言葉に、無言でその場に佇む美汐。

きっと呼吸すらも忘れたかのようにじっと俺の顔を見詰めているのだろう。

その光景が易々と俺の脳裏に浮かぶほどに、俺達二人を静寂だけが包んでいる。

聞こえるのはただ、荒く吐き出される俺の息の音だけだ。

美汐はまだ動かない。

早く…

ただじっと俺の事を見詰めている。

早く……

その視線だけがはっきりと感じられる。

早く………

美汐は待っている。俺の言葉を待っている。今のは嘘だと、俺の言葉を待っている。

俺が手を差し出すのを、俺が助けてくれるのを待っている。

だから、早く……、俺の前から消え去ってくれ。

俺の差し出す手は美汐を助けるものではなく、美汐を壊してしまうものなのだから。

「…………」

ゆっくりと、美汐が体を動かす気配が伝わってくる。

やっと、俺の言葉が真実だと感じたのだろう。

やっと、俺の前から居なくなる気になったのだろう。

やっと、この拷問にも等しい責め苦から逃れる事が出来るのだろう。

これで俺は、美汐を傷つけずにすむのだろう。

だけどそれは、その俺の考えは、数秒後にはあっけなく覆されていた。

俺は安心していた。美汐が体を動かしたという事に。

だから気付けなかった。美汐がどう体を動かしたのかを。

俺は侮っていた。美汐の心の、その強さを。

「相沢さん……」

俺の名を呼ぶ声。

ビクリと、俺の体が震える。

名を呼ばれたからではない。それは予想していた。

もう一度名を呼ぶであろう事くらいは予想していた。その時は冷たく突き放せば良い、そう思っていた。

しかし、俺の体は震えた。

美汐が俺の名を呼んだからではない。

美汐の声が、俺の予想以上に、俺の直ぐ近くから聞こえたからだ。

そして俺が何かを言う前に、俺の手に冷たい何かが添えられる。

それは白い、とてもシロい、美汐の手。

俺の熱を奪うかのような心地良い冷たさの美汐の手。

そのシロを、アカい色で穢したら、どれ程までに美しいだろうか。

この手を握り締め、体を抱き寄せ、その全てを穢したなら……。

駄目だ!!

叫ぶ。俺の理性が。今正に燃え尽きようとする蝋燭の最後の煌きのように。

欲望に飲み込まれようとする理性が、最後の足掻きを見せる。

その足掻きに心震わせ、俺は美汐の腕を振り解こうとして、しかし、出来なかったから。

見てしまったから。美汐の顔を。

泣きそうな顔で、いや、泣きながら俺を見詰める美汐の顔を。

その頬を伝う、涙の雫を。

壊れた、俺の中で。

俺の中で、何かが壊れた。





「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」

俺は走っていた。脇目も振らずただ走り続けていた。

階段を上っているのか、それとも下りているのか、どこに向かっているのか、ここはどこなのか。

何も解らずに、何も考えずに、俺はただ走り続けていた。

あの時、俺の中で何かが壊れる瞬間、本当に刹那の差で、俺はその場から駆け出していた。

いや、逃げ出していた。逃げ出す事が出来た。

それは本当に運が良かったと言って良いだろう。

もしあの時、ほんの僅かでも逃げ出すのが遅れていたら、

もしあの時、ほんの僅かでも美汐の手が俺を引き止めていたなら、

もしあの時、ほんの僅かでも美汐が俺の名を口にしていたら、

俺はきっと、あの場で美汐を組敷いていただろう。

今頃は美汐をこの手で穢していた事だろう。

だけど俺は美汐をキズ付けずにすんだ。

例えその事で美汐の心を傷つけたとしても、

俺は美汐をキズ付けずに、壊さずにすんだ。

あとはただ、このドス黒い衝動を、どうにかして押さえ込めば良いだけだ。

例えそれが出来なくても、押さえ込む事が出来なくても、それでも構わない。

それでどれだけ苦しもうとも、俺はもう苦しまなくても良いのだから。

人を傷つけると、苦しまなくて良いのだから。

俺はもう、一人なのだから……。

破裂せんばかりに脈打つ鼓動。

俺はその鼓動を整える為に足を止めると激しく息を付く。

ここまでくれば流石に美汐も追って来る事は無いだろう。

どれだけ走り続けたのかは解らないが、かなりの距離を走った事だけは確かだ。

今だ荒い息を整え額を伝う汗を拭う。

「はは、はははは……」

その俺の口から乾いた、自嘲めいた笑が零れる。

皮肉なものだ。あれほど恐れていた孤独に、これほどまでの安堵を感じる事になるとは。

あれほど人を求めていたのに、誰にも会いたくないと願っている。

会いたいと思えば思うほど、会ってはならないと俺は俺の心を押さえつける。

そうか……、この想いか……。

記憶の中にある母さんは、この想いを抱え俺を見詰めていたのか。

確かにこれを、この想いを抱き続ければ、その先に待つのは死か、良くて発狂だろう。

この想いは、欲望は、それほどまでに狂おしすぎる。

そして仮に、この欲望を果たしたとしても、

その先に待つのは拭いきれぬ後悔と、更に膨れ上がった尽きる事の無い欲望。

俺はそれをこの身をもって体験している。

秋子さんと名雪、二人の体と、二人の心で。

ドクンッ

二人の事を思った途端、耳に聞こえそうなほどに心臓が脈を打つ。

息も付かせず走り続けた為ではない。二人を欲しいと俺の中の欲望が唸りを上げているのだ。

「重症だ……」

本当に、重症だ。

二人の名を、顔を思い浮かべただけで、これほどまでに鼓動が狂ってしまうのだから。

もし今俺の前に誰かが、秋子さんが、名雪が、美汐が、俺が会いたいと思う人が現れたなら、

俺はきっと己の欲望を抑える事が出来ないだろう。

何も考えず、何も思わずに、俺はその人を組敷き、そして……。

「くそっ!!」

俺はその考えを振り払うかのように叫び、そして腕を壁に叩きつける。

容赦なく、力の限り。

ドンッ という鈍い音の後、痺れるような低い痛みが俺の腕から体へと広がていく。

しかしその痛みさえ、俺の欲望を抑える事が出来るなら、心地良いもののように感じられる。

その痛みに少しだけ、ほんの少しだけ心落ち着いた俺は、その場を、学校を離れる為に歩き始める。

先ほどは大丈夫だと思ったが、やはりここは、学校は安心できない。

ついさっきまで美汐は俺の直ぐ傍にいたのだ。またどこで出会うか、もう出会う心配が無いなんて解らない。

それに美汐だけではない。この学校には人が、俺が会いたいと思う人が沢山居る。

俺はここがどこかなんて考えずに走り続けた。だからここで誰にも会わないとは言えない。

誰に会ってもおかしくは無いのだ。

だが、どこに行けばいい。どうすればこの衝動を抑えられる。

俺の内側から溢れんばかりに膨れ上がったこの衝動は。

「くそっ……」

俺は小さく毒づく。その言葉には先ほどのような覇気は微塵も無い。

押さえが利かない。

一旦膨れあがった欲望は、その全てを吐き出すまで収まりそうに無い。

欲望を吐き出すとはつまり……。

「くそ……」

足元が覚束ない。極限まで膨れ上がった欲望はこれほどまでに心を、体を狂わせるものなのか。

ガシャン

とうとう立っている事さえ辛くなった俺は倒れ掛かるように扉に背を預ける。

ミシミシ……

俺の体重に背後でガラスが軋みを上げるが、そんな事を気にする余裕は俺には残されていない。

気が……狂いそうだ……。

この狂気の前では死と言う言葉すら心地よいもののように感じられる。

母さんの体が耐えられなかったと言うのも理解出来る。

これはあまりにも辛すぎる。

渇く……、渇く……、喉が、渇く……。

誰か、どうにかしてくれ。俺にはもう、どうする事も出来ない。

何も考える事が出来ない。何でこんなに苦しまなければいけないんだ。

何で俺が、こんな事で……。

いっその事狂ってしまえたなら、そうすれば俺は、安らぎを得る事が出来るのに。

現実はそれさえも許してはくれない。

誰か俺を、助けてくれ……。

誰でもいい、俺を助けてくれ……。

この苦しみから俺を、解き放ってくれ……。

と、その時、誰かの顔が俺の脳裏を過ぎった。

誰だ……、この人は、誰だ……。

葛葉……さん……?

掠めるように過ぎった顔は、彼女の、葛葉さんの顔の様な気がした。

葛葉さんなら、俺を助けてくれるだろうか。

俺の事を知る彼女なら、この苦しみから解き放ってくれるだろうか。

俺を待っていたと言う葛葉さんなら、俺が助かる術を教えてくれるだろうか。

葛葉さんなら……

ドクンッ!!

その時、俺が葛葉さんの顔を思い浮かべたその時、俺の鼓動は、一際大きく跳ね上がった。

そしてその時、俺の鼓動が跳ね上がったその時、

「誰……ですか……?」

俺の背後、扉の向こうから、とても聞き慣れた声が聞こえてきた。





その日もあたしは名雪の部活が終わるのを待っていた。

ここ数日と同じ様にあたしは教室でノートを広げ名雪の部活が終わるのを待っていた。

名雪と一緒に帰るために、少しでも長く名雪の傍に居るために。

名雪の傍に居て、それであたしに何が出来ると言う訳ではないけれど、そうしなければ私の心が納得しなかった。

「これで終わり、と」

ペンシルの芯をトンッと戻しそう呟く。

今日出された課題のプリント、その一つが仕上がったのだ。

そう、その内の一つ。

「後は英語を終わらせれば、全部終わりの筈よね」

課題のプリントを終わらせたのは今ので二枚目、後もう一枚、英語のプリントが残っている。

「全く、こんな時だというのに三枚もプリントを出してくれて。

学校も少しくらい気を使ってくれれば良いのに」

思わずそんな愚痴が口を付いて出る。

とは言え、この言葉が八つ当たり以外の何物でも無い事は、口にした当人のあたしが一番理解していた。

学校はただ課題を出し己の職務を全うしただけ。

それを鬱陶しく思うのは、単に私の心にゆとりが無いだけ。

そう、今までに無いくらい私の心にはゆとりが無かった。

名雪の豹変。

それだけでも十分だがそれだけではない。

名雪を送り届けた時に見た秋子さんにもどこか違和感を感じてしまった。

そして、ここ数日私達の前に姿を現さない相沢君。

その相沢君と入れ替わるように姿を現し始めたあの女。

何もかもが、私の心をざわめかせる。

特に、あの女。全てを知っているかのように振舞うあの女。

あの女の存在が、私の心をざわめかせる。

「……何なのよ、ほんとうに」

本当に何が起こっているのだろうか。何も解らない。

解りそうで、何も解らない。その事が余計にあたしの心をざわめかせ、そして苛立たせる。

「はあ……。解らないなら、解る事をしていくしか無いわね。

差し当たって今は、英語の課題を終わらせる事かしら」

力なくそう呟きあたしは鞄の中からプリントを取り出す。

と、その時、あたし以外に誰も居なくなって久しい教室の扉が不意に開け放たれた。

誰か忘れ物でも取りに来たのだろうか。親しい人なら少しからかってみようかしら。

そう思い扉へと向けられたあたしの顔は、そこに佇む予想外の人影に一瞬にして凍りついた。

「こんにちは、美坂さん」

そこにはあの女が、たった一度の、たった一言の会話で最悪の印象を叩き込んでくれたあの女が、

あの時と同じ嫌な笑みを浮かべてあたしの事を見詰めていた。

あたしはあまりに突然の出来事に声も出せずにただその嫌な笑みを見詰める事しか出来ない。

自分の顔が険しくなるのを隠す事も出来ず、ただ見詰める事しか、睨む事しか出来ない。

「あらあら、随分と嫌われてしまったものね」

しかしその女はそれに怯む事も無く、それどころか楽しむかのように軽口を叩いてくれる。

「まさか、好かれているとでも思っていたんですか?」

フンと、鼻で笑うようにそう言い放つ。

「それこそ、まさか、ね」

それを軽く受け流し肩をすくめて答える女。

「…………」

そのあまりに飄々とした姿が、あたしの中に渦巻く苛立ちを怒りへと替えへ良く。

「何をしに、来たのですか?」

その怒りを必死に隠し、冷たい声でそう問いかける。

隠さなければ、一気に破裂してしまいそうだから。でも、今はまだ、その時ではないから。

せめて何の目的でここに来たのか、それくらいは聞き出しても遅くは無いから。

「あたしに何か用事があったから、ここへ来たのでしょう?

あたしがここに居るのを知っていたから、だからここへ来たのでしょう?

だったら早く、その用件を仰ってください」

それは憶測であったが、おそらく間違いではないだろう。

何もかも知っていて、この女は動いているのだ。

いや、何もかもこの女の思い通りになっている、そう言った方が正しいだろう。

ならばその思惑にこちらから乗ってやろうではないか。

乗ってやった上で、全てをこの私の手でぶち壊して上げるから。

だから早く、ここに来た用件とやらを言いなさい。

一体あたしに何をしようとしてここに来たのかを。

「ふふふ……」

しかし女は、何も答えずにただ微笑む。

まるで私の考えの全てを見通すかのように。

あたしがどう足掻こうとも、全ては自分の掌の中の事と嘲るかのように。

「何が……」

「別に……」

可笑しいのか、そう言おうとしたあたしの声に女の声が重なる。

思わず口を噤むあたし。おんなは構わず言葉を続けていく。

「私は別に、貴女に用があって来た訳じゃないの」

あたしの用があった訳じゃない?

ならば何故?

まさか、名雪に?

「いいえ、違うわ。あの子にも用は無い」

名雪にも、用は無い?

ならば一体ここに何をしに来たと言うのか。

「私は別に貴女達に、貴女に用があって来た訳じゃない。

ただ、貴女に、忠告をしに来ただけ」

忠告? あたしに? はっ、それはまたご苦労な事で。

「生憎ですがあたしには……」

「貴女には確か、妹が一人居たわよね?」

あたしの言葉を女の言葉が遮る。そしてその言葉はあたしの言葉を止めるには十分な力を持ち物だった。

妹……? まさか……?!

「栞!!」

あたしの妹。大切な大切なあたしの妹、栞。

「そうそう、確か栞ちゃんて言ったわね」

何故ここに来ていきなり栞の名前を出すのか。

「まさか……貴女……栞に……」

嫌な想像が頭の中を駆け巡る。悪い予感が心の中を掻き毟る。

「栞に一体何をしたの!!」

栞、その名前を前にしたあたしはそれまでつけていた仮面をかなぐり捨てた。

その名前を前にして仮面をつけていられるほど、冷静で居られるわけが無かった。

栞はあたしにとってそれほどまでに大切な存在なのだから。

「妹さんの事、随分と大切にしているようね」

そんなあたしを楽しむかのように女が軽口を叩く。

「栞に何をしたと言ってるのよ!!」

だが、その軽口に付き合える余裕は今のあたしには無い。

一刻も早く栞の安否を確かめたい、その為ならこの女を殴り倒してでも。

いいえ……、殺してさえでも。

「でも、その割には最近妹さんの事放っていたみたいじゃない?」

それが解らないのか、いや、解っていてなお軽口を続ける女。

そしてその軽口はあたしの心の痛いところをついてきた。

確かにあたしはここ最近名雪に付きっ切りで栞の傍に居る事は少なかった。

でもそれは栞だから、妹だから、何時も身近に居る存在だから、だから、あたしは……。

「だから私は貴女に忠告をしに来た。

最近の栞ちゃん、随分と寂しそうな顔をしていたわよって」

確かにそれは、そうなのかもしれない。

栞は寂しがりやだ、それに気付けなかったのはあたしの落ち度だ。

だが、それをこの女が忠告しに来た?

そんな筈は無い。わざわざそれだけの為にあたしの所に来る筈が無い。

この女が、そんな事をする筈が無い。

「もう一度だけ聞くわ。

栞に……、栞に何をしたの」

そう言って、一歩、踏み出す。

返答によっては、これ以上ふざけた返事を続けるなら、力ずくでも聞き出す為に。

「ふふ……」

女が笑う。あたしを嘲るように女が笑う。

また一歩、あたしは踏み出す。

「私は何もして無いわよ。言ったでしょう? 私は忠告をしに来ただけだって。

現に私はここに居る。だから栞ちゃんに何かする事なんて出来ない。

私には出来ない。私には、ね」

それは暗に、他の誰かが栞に何かをしているという事。

今、正に、栞の身に何かが起こっているという事。

ギリ……

あまりの屈辱に噛締めた口から歯の軋む音が聞こえる。

今すぐにでもこの女に殴りかかりたいが、そんな事をしている間に栞のみに危険が降り掛かりかねない。

いや、今正に降り掛かっているかも知れないのだ。

だけど、どこに、どこに居る? 栞はどこであたしの事を待っているのだろうか?

栞が行きそうな所……、それは……、

あたしの脳裏に一つの場所が思い浮かぶ。

それに重なるように女の言葉が耳に届く。

「そう言えば貴女達、姉妹で同じ部活に入ってるのね。

他の部員は顔も出さない、顧問の先生さえ滅多に顔を出さない寂れた部活らしいけど……」

部室!!

あたしは女の言葉を最後まで聞く事無く、その場所を目指し駆け出していた。





「…………」

香里が駆け去った後を冷たい瞳で見送る女性、葛葉。

「精々、急ぐ事ね」

そう呟き、扉をくぐる。

「もっとも、いくら急いだ所でもう全て手遅れなのだけれど、ね」

今一度、囁くように零された葛葉の言葉は、

後ろ手に閉められた扉の音によって音になる事無く掻き消されたのだった。



つづく

あとがき

どうコメントしたものやら……。

とにかく祐一、美汐からは逃げだせたもののあっけなく栞と遭遇。

その場に香里も急行中です。

流石の祐一もこれ以上逃げる事は不可能でしょう。

と、なれば……。