Kanon SS



血塗られた螺旋の絆
第十九話



ピチャン……。

澄んだ水面に堕ちる、一滴の雫。

その雫が生み出す、波紋。

たった一滴の雫が生み出した波紋は、しかし澱み無く澄んでいた水面を歪め、狂わせて行く。

ゆらゆら、ゆらゆらと。

その水面に映る姿を、真実だと思っていたその姿を、偽りだと思い知らせるかのように。

静に、優しく、その姿を壊していく。

ピチャン……。

白く美しい指から堕ちる一滴の雫。

甘美なまでに美しく、そして狂おしいまでに妖しい、深紅の雫。

そのたった一滴の雫が、澄んだ水面の如き日常に波紋を広げていく。

静に……、

ゆっくりと……、

そして……、

確実に、歪め、壊していく。

真実だと思っていた日常が、しかし何時からか微妙に狂い始め、

そして気付いた時には偽りに彩られた日常へと塗り替えられる。

まるで、水面に堕ちた紅い雫、その雫が滲むようにその水面を、

そして何時しかその全てを深紅へと染め上げていくかの様に。

紅い雫により生じた波紋は、色も形も、全てを塗り替え壊していく。

ピチャン……。

一滴。

ピチャン……。

また、一滴。

水面を歪める紅い雫。

その歪む水面を楽しそうに見詰める一人の女性。

紅い雫を滴らせながら、戯れる様に、焦らす様に、水面に波紋を広げていく。

波紋が広がる度に、水鏡に映る女性の笑みに、綺麗なその笑みに歪みが広がる。

ゆらゆら、ゆらゆらと。

だが、それでも彼女は水面に紅い雫を堕としていく。

己の姿が歪む事を気にする事も無く。

いや、まるでそれを楽しむかの様に。

何故なら、それこそが彼女の求める物だから。

歪み壊れた姿こそが彼女の求める姿だから。

澄んだ水面に堕ちる紅い雫が異物でしかないのならば、

真紅に染まる水面に堕ちる澄んだ雫は、やはり異物でしかありえない。

何が真実で何が偽りかを定める事が出来るのは、ただ一人、己自信だけである。

例えその真実が、周りから見れば如何に異端に映る物だったとしても、

それを偽りと決める事は誰にも出来ない。

真実は、ただその人の胸の中だけに。

真紅に染まる水面を胸に湛える彼女にとって、

歪んだ、狂った日常を生きる彼女にとってはそれが真実であるように、

澱みない水面を胸に湛える人達は、

澄んだ、穏やかな日常を生きる人達は彼女にとっては異端でしかありえない。

だから彼女は、雫を堕とす。

紅い、紅い雫を。

あの日、苦しみし者に堕とされた雫。

白き指より滴り堕ちた一滴の紅い雫。

その雫は、深く、深く、苦しみし者の心の奥底へと堕ち、弾けた。

弾けた雫は波紋となって心の中に広がって行き、そして染み込んでいく。

静かに、ゆっくりと、心を歪め壊して行く。

耐え難き苦しみからの解放と、欲望と快楽に満ちた淫楽と共に。

じわじわ、じわじわと、歪み狂った深紅に染めていく。

心の一番深い所から、外へ、外へと、滲ませていく。

そして、心から滲み出た紅い染みは、彼を取り巻く人々にもその染みを広げていく。

近すぎるが故に、知らぬ間にその心を紅に染め、何時しか、歪み、壊れていく。

ゆっくり、ゆっくりと。

歪められ、狂わされ、壊されていく。

それはまるで、腐りゆく果実。

甘い蜜の如き香りの、腐りゆく果実。

そして、全てが腐りし時、果実は堕ちる。

抗う事すら出来ず、ただ、堕ちゆくのみ。

深く暗い、腐りし世界に。

濃密なまでに甘い、腐りし世界に。

その世界を求め、その世界を真実とし、その世界へと誘う者の元へ。

引き寄せられるが如く、堕ちて行く。

だから彼女は、雫を堕とす。

その全てを、彼女の求める深紅の色に染め上げる為に。

その全てを、彼女の求める腐りし世界に誘う為に。

自分の愛する人を、自分と同じ紅に染める為に。

自分の愛する人を、自分と同じく狂わせる為に。

自分の愛する人を、自分と同じ世界に誘い、そして、二度と離さぬ為に。

甘く、腐りし世界へと。

その為ならば、何をする事も誰を巻き込む事も厭う事無く。

ただ一人、自分の愛する人の為に。

その人の全てを、我と同じ紅に染め上げる為に。

その人の全てを、我と同じく腐らせる為に。

その人の全てを、我が元に堕とす為に。

彼女は

紅い雫を

堕とし続ける……。



ピチャン……。

滴る、雫。

ピチャン……。

広がる、波紋。

ピチャン……

腐りゆく……、心。



祐一が学校に来なくなって4日。

今日も彼の席にその主の姿は無い。

その場所を、微動だにせず見詰め続ける一人の少女。

空席である筈のその場所に、まるで誰かの姿を認めるかのように。

真っ直ぐに、頑なに、そして、何処か虚ろに。

何時も笑顔を浮かべていたその表情を、まるで仮面の如く凍りつかせて。

祐一が学校に来なくなってから4日間、彼女、水瀬名雪は変わる事無くその席を見詰め続けている。

そんな名雪の後ろで、その背中に心配そうな視線を投げかける少女。

名雪の親友、美坂香里。

週末、休み明けと共に別人とも思える程に豹変してしまった名雪。

そして、その理由を知る、いや、原因であろうと思われる人物、祐一は一向に姿を表さない。

ただ一心に名雪の身を案じ、何があったのかと尋ねても、力になれることは無いのかと尋ねても、

ただ、名雪は首を左右に振るだけ。

頑なに、口を開こうとはしない。

それどころか、その意思さえ見せようとしない。

周りの全てを、香里さえをもその瞳に映そうとせず。

盲目的なまでに祐一の姿だけを追い求めて。

そして日増しに、その傾向を強めていく。

そんな名雪に不安と焦燥を募らせる香里。

如何にかして名雪に元の笑顔を、せめて表情だけでも取戻そうとするが、

だが、名雪を元に戻すどころか、名雪を変えてしまった何か、その理由すら伺い知る事が出来ない。

断片的な情報はある。

祐一が、学校だけに及ばず水瀬家においてもその姿を消していると言う事。

名雪と祐一の間で何かが起きたという事。

そして、何らかの形であの上級生の女性が係わっているという事。

だが、それらを事実として知る事が出来てもそれから先、その全てを結びつけ一つの答えを導き出す事が出来ない。

それはまるで、一寸先すら見えない霧の中を彷徨い続けるかのように。

いくら手を伸ばそうとも、返って来るのは手応えの無い感触だけ。

どんなにもがき足掻こうとも、その霧から抜け出す事は叶わず。

決して掴む事の出来ない何かに対し、香里の中に不安と苛立ちだけが積もっていく。

そして、何も出来ない自分に対しても。

ただ出来る事は、名雪の傍に居てやる事だけ。

名雪がこれ以上、変わらない様に。

名雪がこれ以上、壊れてしまわないように。

傍に居て、見詰める事しか出来ない。

例えそうした所で、何も変わらないと解っていても。。

例えその所為で、栞の傍を離れる事になったとしても。

香里にはそうする事しか出来なかった。

そうする事が正しいと信じて疑う事が出来ずに。

ピチャン……。

自分の心に堕ちる紅い雫に、気付く事が出来無かった。

祐一を歪める波紋は確実にその周りへと歪みを広げて行き、

そして、その波紋が生み出す歪んだ波は、紅い雫を溶かしていく。

彼の周りに居る、全ての者に……。



美坂栞と月宮あゆ、そして天野美汐。

彼女達もまた、雫がもたらす紅い波紋にその心を歪め始めていた。

言いようの無い不安と、そして孤独に。

一滴、また一滴と、戯れるようにしずる紅い雫、

その雫が生み出す紅い波紋は、お互いが混ざり共鳴する事によりさらに周りへとその波を広げていく。

祐一の不在、その理由を知るであろう名雪の豹変、そんな名雪を心配し傍を離れようとしない香里。

それらの波紋は、彼等から居場所を、時間を、会話を、そして笑顔すらも奪っていく。

祐一の不在と名雪の豹変、それは彼等の集まる場所を、理由を壊す。

集まる場所が無くなれば、必然に共に過ごす時間を、延いては会話を無くす。

そして残されるのは、笑顔を無くし不安と孤独を抱えただけの、心。

信頼し、心を許して、想いを寄せる人が、居ない。

理由さえも知らぬ内に。

あまりにも突然奪われた、安らぎ。

不安に身を震わせながら、ただ時が過ぎるのを待つ事しか出来ない。

月宮あゆも、

美坂栞も、

天野美汐も、

三人ともがあまりにも祐一に依存し過ぎていたから。

祐一と、彼を取り巻く人々。

心安らぐ場所。

それが無くなるなんて、考えた事すらなかった。

あまりにも、日々が穏やか過ぎたから。

何時までも続くのだと思っていた。

でも、あまりにも不意に、その幻想は崩れ去った。

終わりを告げる日常。

無くした存在。

その存在が無くなった今、彼女達は心に渦巻く不安を取り除く術を無くす。

祐一が、名雪が、香里が、頼るべき人が皆、自分の傍から離れていくから。

一人教室で時を過ごし、

一人静かに食事を済ませ、

一人孤独に放課後を迎える。

学校と言う名の雑踏、その雑踏の中故に感じる孤独。

孤独は不安を、不安は恐怖を呼び、恐怖は心を壊していく。

そして、壊れゆくその心は、安らぎをくれる存在を狂おしいまでに求め始める。

ピチャン……。

そこへ滴らされる、紅い雫。

既に壊れ始めた心はその雫がもたらす揺らぎを止める事も出来ず、

ただ、静かに、心にその紅を広げていく……。



川澄舞と倉田佐祐理。

彼女達にも、紅い波紋は静かに忍び寄っていた。

川澄舞は、祐一と言う存在が無い事に対する不安と悲しみを、

倉田佐祐理は、舞と同じ思いと、そして相沢葛葉に対する疑惑の念を、

それぞれ、その胸に抱いていた。

祐一が、学校に来ない。

何時もの踊り場に、その姿を現さない。

弁当を広げ、祐一を待つ二人の前に姿を、笑顔を浮かべた姿を現さない。

舞はじっと階段の下を見詰め、祐一の足音を、姿を待ち続ける。

佐祐理はそんな舞を心配そうに見詰め続ける。

時折、舞と同じく階段の下に視線を向けながら。

結局、弁当に箸を動かし始めても、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴っても、祐一が姿を現す事は無かった。

週明けから祐一が学校に来ていないのは解っていた。

今日、学校に来ていない事も二人は解っていた。

でも、それでも二人は祐一を待っていたのだ。

ここに居れば祐一が来てくれる、何処か願いにも似た想いに縋って。

だが、その願いも空しく、祐一は姿を現さなかった。

言葉を交わす事も無く教室へと戻る二人。

教室に入り、それぞれの席へと戻る間際、優しく声を掛けてくる佐祐理に、しかし舞はただ力なく頷くだけ。

席に着いた舞はじっと机を見詰め、顔を上げようとしない。

普段から表情をあまり出さない舞ではあるが、いや、だからこそだろうか、その表情に浮かぶ翳りが色濃く見えるのは。

佐祐理はそんな舞を見詰めながら、自分の言葉が何の力にもなっていない事に歯痒さを覚える。

佐祐理も祐一の事には不安と心配を覚えるが、激しい落胆を表す舞が傍に居る分、幾分冷静さを保っていた。

その冷静さが、佐祐理の視線をある人物に向ける。

その人物とは、相沢葛葉。

恐らくは、祐一に何らかの関わりを、今回の事に関わりを持つ人物。

相沢と言う姓。

人を拒む瞳。

祐一に向けられていた視線。

そして、水瀬名雪との確執。

そのどれもが疑惑を持つには十分すぎる理由である。

特に、水瀬名雪との確執。

それを直接目にした訳ではないが、クラスメイトである以上あれ程の騒ぎが起これば嫌でもその話は耳に入ってくる。

噂話である以上多少の誇張は免れない。

だが、その多少の誇張に目を瞑っても、それでも、その噂話は驚愕を覚えるに十分値するものであった。

相沢葛葉が二年の水瀬名雪と男を巡って争いを起こした。

その男とは勿論、相沢祐一。

その祐一を巡って激しい口論の末、最後には水瀬名雪が相沢葛葉に対して手を上げた。

それは祐一から聞かされていた水瀬名雪と言う人物像からは想像も出来ない行動であった。

ただの噂話なのか、それとも、その行動を取らせる程の事が彼女の身に起こったのか。

恐らくは、後者であろう。

佐祐理はそう感じていた。

そう感じさせる程に噂話はあまりにも生々しく、そして、祐一が学校に来ないと言う事にも説明がいく。

そう、間違いなく、彼等の間で何か、尋常でない出来事が起きたのだ。

だが、それを知る人物が目の前に居るのに、佐祐理はその人物に問い質す事が出来ずに居た。

全くと言って良い程面識も無く、それに、尋ねた所で素直に答えてくれるとは到底思えない。

簡単にはぐらかされるか、ともすれば相手させして貰えないだろう。

だから佐祐理は、彼女の挙動を注意深見守る事にした。

少しでも何らかの情報を得る為に。

祐一との間に何が起きたのかを知る為に。

穏やかな日常を取戻す為に。

舞に笑顔を取戻す為に。

あの日無くした存在、今だ心に残る後悔と悲しみを舞にも与えない為に。

祐一という存在を取戻す為に。

必要ならば、忌嫌う家の力を使ってでも。

己の全てを舞と祐一の二人の為に。

それで全てが取戻せるのなら、いや、取戻す為に。

佐祐理は、葛葉と言う存在に深く入り込んでいく。

それこそが、葛葉の思惑なのだと気付く事も無く。

ピチャン……。

葛葉が堕とす紅い雫、狂気と言う名の雫に気付く事無く。

ゆらゆらと、心を歪め、壊れていく……。



水面に浮かぶ幾つもの波紋。

その水面を、波紋を、楽しそうに、狂気を孕んだ笑みを浮かべて見詰める女性。

白い指先から紅い雫が滴る度に波紋は広がり、

そして溶けた雫が澄んだ水を彼女が望む深紅の色に染めていく。

焦らすように、戯れるように、幾何学模様の如き波紋を生み出していく。

その様子を眺めながら、彼女は水面の上に指を走らせる。

次に波紋を生むべき場所を見定めるかのように。

そして、その指先には今正に堕ちんとする一滴の紅い雫。

その雫が、彼女が指を止めたその拍子に、プツリと、切れるように指先から離れた。

音も無く落ちゆく紅い雫。

そして―――

ピチャン……。

また一つ、水面に波紋が生まれる。

既に薄紅色に染まり始めた、その水面に。

更なる深紅に、染め上げる為に。

ゆらゆらと、波紋が生まれる……。



その日、天野美汐は一人教室に残っていた。

学級委員であるが故に、担任に頼まれた仕事を終わらせる為に。

そして、その全てが終わった今、辺りは微かな茜色に染まり始めていた。

仕事自体は簡単なものであった。

コピーされたプリントを振り分けホッチキスで止めるだけである。

ただ、初老の担任故機械に疎いのか、ソートを掛けずにコピーをした為振り分けに手間取った程度である。

そして、人手が美汐一人というのも作業効率の遅れに拍車を掛けていた。

もう一人の学級委員はとっくに帰宅している。

美汐に仕事の全てを押し付けるようにして。

それに美汐が学級委員になった事自体、断りきれないのを良い事に無理やり押し付けられたようなものである。

尤も、学級委員といっても大した仕事がある訳でもなく、時折こうして仕事がある程度である。

そして、下手に誰かが居るよりも、こうして一人で仕事をする方が美汐にとっては都合が良いのであった。

他人は、恐怖の対象でしかないから。

ただ一人、相沢祐一と言う存在を除いて。

遠くから聞こえる部活の喧騒を耳に掠めながら、美汐は一人窓の外を見詰める。

そのただ一人の存在、祐一が学校に姿を現さない。

そして、耳に入るのは物騒なまでに不穏な噂。

「相沢さん……」

ポツリと、その名を呟く。

それだけで、言いようの無い寂しさが胸の中に沸き起こる。

ただ一人であるが故に、その存在は美汐の中ではあまりにも大きい。

美味いと褒めてくれた弁当。

その時の笑顔が嬉しくて、もう一度見たくて、祐一の好きなおかずを詰め込んだ弁当を手に教室の前で待つ美汐。

しかし、祐一は来なかった。

美汐、と、名を呼ぶ事は無かった。

昼休みの残り時間も僅かになって、漸く美汐は教室に戻ると自分の弁当を開ける。

だが、一人で食べる弁当の味は、到底美味しいと思えるようなものではなかった。

数箸も進めぬうちに弁当を閉じる美汐。

とてもではないが、全てを食べるような気分ではなかった。

ただ、祐一が来ないというだけで。

蓋を閉じ包み終わった弁当を、美汐は鞄の中にそっと仕舞う。

包みを開かれる事の無かった祐一の弁当も一緒に。

もしかしたら、後で渡す事になるかもしれないから。

だが、そんな美汐の思いも空しく、その弁当が祐一の手に渡る事は無かった。

そして、祐一が美汐の前に姿を現す事も。

「………」

無言で窓の外を眺める美汐の頬を、涙が一滴滑り落ちる。

悲しかった。

弁当を渡せなかった事、では無い。

それはただの口実に過ぎないのだから。

ただ、祐一に会えない事が美汐には堪らなく悲しかった。

心配する事は無い、直ぐに会える、そう思い込もうとしても、

思い込もうとする度に、あの不穏な噂が、そしてあの女性の顔が脳裏に浮かぶ。

会ったのは一度だけ、見かけたのも数度だけである。

だが何故か、あの女性の顔は美汐の心に深く刻まれていた。

たった一度、会ったと言っても会話すら交わした訳ではないあの時の、

祐一の背後に隠れるように私て立つ自分に向けられる、あの女性の顔が。

止め処ない考えを、不吉な考えを振り払うように頭を振ると、美汐は鞄を手に立ち上がる。

今は放課後、仕事は終わった、そして、祐一は居ない。

唯一共に帰ろうと声を掛けてくれる人物は、はいと言葉を返せる人物は居ない。

ならばこうして何時までもこの場に留まる理由は無い。

下手に留まって教師に咎められる必要は無いのだから。

教室を出て人気の無い廊下を俯き気味に歩く美汐。

今は落ち込んでいると言う事もあるが、俯き気味になりやすいのは美汐の悪い癖である。

カツカツカツ……。

リノリウムの廊下を静かに歩く美汐。

考えるのはただ一つ、祐一の事ばかり。

いや、考えるというよりも祐一の事しか、祐一の名前しか浮かんでこない。

殆ど無意識に近い状態で、目に映る廊下を歩いて行く美汐。

だから、気付けなかった。

数メートル先、階段へと続く曲がり角、その先の階段から聞こえてくる、

階段を下りてくる足音に。

徐々に近づく、二つの足音。

そして、美汐がその曲がり角に差し掛かったその時、不意に彼女の前に黒い影が現れた。

階段を下りていた人物と鉢合わせたようである。

「きゃっ?!」

短い叫びと共に身を竦める美汐。

相手も美汐の存在に気づいていなかったのか驚いたように一歩後退る。

恐る恐ると、ぶつかりそうになった相手に視線を向ける美汐。

そして、その相手の姿を認めた時、美汐の瞳は驚きに見開かれた。

相手も美汐の姿を認めその顔に驚きの色を浮かべる。

何故ならその相手は、

「あ、あいざわさ……ん?」

美汐の心を悲しみに彩っていた人物、

「美汐……」

相沢祐一、その人だったのだから。



つづく

あとがき

う〜〜〜、我ながら今回訳解んない話になってます。

駄目ですね、間隔を開けると。

早く話を進めたいとは思うのですが……。

あれです、今回書きたかったのはですね、

何と言いますかこう、この物語に漂うねっとりとした雰囲気を表したかったのですよ。

そう、ねっとりとした雰囲気を。

例えるなら、炎天下の車内に置き忘れたチョコレートを握りつぶしたような?

そんなねっとり感を。

どろどろねっとりがこの物語の醍醐味、の筈ですから。

と言っても、今回それを表せているかは甚だ疑問なのですが……。