Kanon SS



血塗られた螺旋の絆
第十六話



他愛も無い日常。

栞が居て、名雪が居て、相沢君が居て、北川君が居る。

大好きな妹が居て、掛け替えのない親友が居て、気兼ねない友達が居る。

そんな皆と、

時には些細な事でケンカをして、時には些細な事で悩みあって、時には些細な事で涙を流して、

そして、笑い合って……。

そんな、他愛も無い日々。

他愛も無いけど、幸せな日々。

そんな日々が、何時までも続くと思ってた。

高校を卒業して、例え離れ離れになったとしても、

何時までもこんな関係が続くと思っていた。

そう信じて、疑わなかった。

今の日常が、今の関係が壊れてしまうなんて、

そんな事、思いさえしなかった。

だから気付けなかった。

考えた事が無いのだから、気付ける筈など無かった。

全ての終わりが直ぐそこまで近づいている事に。

『それ』があたし達の直ぐ傍まで迫っている事に。

そう、既に『それ』はあたし達のすぐ背後に、そのどす黒く大きな底無しの口を開け、

全てを飲み込もうと音も立てずに躙り寄っていたのだ。

何も気付けない、あたしの直ぐ背後に……。



「それじゃお姉ちゃん、お昼までサヨナラです!!」

栞が元気よく手を振り、一年の教室のある校舎の入口へと消えていく。

「ええ、お昼にね」

あたしは栞の言葉に答えるとその場に止まり、その元気な姿を目で追う。

栞は玄関先で振り返り、そしてあたしの姿を認めると、嬉しそうに大きく手を振ってくる。

その姿にあたしも笑顔を浮かべ、胸の所で小さく手を振る。

栞は嬉しそうにもう一度大きく手を振ると、校舎の中へと消えていった。

あたしは栞の姿が見えなくなるまで見送り、完全に栞の姿が見えなくなってから、

自分の校舎に向けて歩き始める。

それは何時も通りの朝。

穏やかで、そして幸せな何時も通りの朝だった。

あたしは下駄箱から上履きを取り出し、靴を脱ぐとそれに履き替える。

そして脱いだ靴を手に取り下駄箱に仕舞いかけ、とある下駄箱の前で目を止めた。

そこに書かれている名は、水瀬名雪。

丁度あたしの真下にその名は書かれている。

あたしは何かに導かれるようにゆっくりと、その下駄箱を開けてしまう。

その中には、あたしの予想を裏切る事無く上履きが一足、きちんと揃え収められている。

つまり、この下駄箱の主はまだ学校に来てはいないと言う事。

まあ、解っていた事ではある。

解りきっていた事であるが故に、私の口から笑みが零れる。

もしこの中に下履き用の靴が入っていたなら、あたしは朝一番にして今日最大の驚きを覚えていた事だろう。

あたしは自分の考えにもう一度笑みを零し、名雪の下駄箱を閉じる。

そして自分の靴を下駄箱に仕舞うと、押さえ切れない笑みを噛殺しながら、

疎らな人影しかないであろう教室へと向かうのだった。

教室に着いたあたしは先に来ていた級友と挨拶を交わしながら自分の席へと歩いて行く。

そして席に腰を下ろすと机に教科書を仕舞い、全ての準備を済ませた後、

窓際の席、相沢君の席に腰を下ろす。

そう、何時もの如く。

慌てふためいて学校に駆け込んでくる二人の姿を、

必至の形相で駆け込んでくる名雪と相沢君の姿をこの目に確りと収める為に。

五分、十分、と時計の針が進んで行き、それに合わせて教室の中の活気が増していく。

と、その時、校門から校舎へと続く道の中ほどに見慣れた人物の人影を発見した。

何時もとはあまりにも違うその雰囲気に最初は気付かなかったが、

それは紛れも無くあたしの親友、水瀬名雪その人だった。

あたしは名雪の姿を認め、教室の中にある時計に視線を走らせる。

その時計は始業の鐘が鳴る時刻のまだ十分前を指していた。

……嘘?

あたしはもう一度窓の外に目を向ける。

そこにはやはり見間違い等ではなくあたしの親友名雪の姿が在った。

名雪はゆっくりと歩きながら校舎を目指し歩いている。

あたしは名雪のその姿に、何時もとは違うその姿に眉を顰める。

名雪が歩いて登校している事に、

名雪が何かを、いいえ、誰かを探すように辺りを伺っていることに、

そして名雪の隣に彼が、相沢君が居ない事に、

あたしは眉を顰めた。

名雪は重い足取りで、時折辺りを伺いながら校舎へと歩いてくる。

ここからでははっきりとその表情は解らないが、

その足取りと雰囲気から何時もとは違う、

そう、言うなればその表情は何処か落ち込んでいるように感じられる。

あたしは名雪のその姿を目で追いながら、言い知れぬ不安が心の中に広がっていくのを感じていた。

確たる答えは何も導き出せずに、

ただ、漠然とした不安だけがあたしの心の中に広がっていくのを、

宛ら傷口に当てられた真綿がその色をじわじわと純白から血の朱に変えていくが如く、

ゆっくり、ゆっくりと心の中に広がっていくのを感じていた……。



ガラガラ……。

それから数分後、実際に経過した時間のそれ以上に感じられる沈黙の後、

名雪が教室に姿を現した。

名雪は教室に一歩足を踏み入れるとあたしに、

いいえ、相沢君の席に目を向け、そして教室の中を見回す。

そして一頻り教室の中を見回した後、その顔に深い落胆の色を浮かべ項垂れる。

まるで捜し求めた何か、ここに来れば必ず見つけられる、

そう思っていた何かが、そう信じていた何かが、

しかし、自分の思いとは違い、ここですら見つけられなかったと言うかのように、

深く、深く項垂れる。

そして名雪は重い足取りでこちらへと歩いてくる。

俯いた名雪からはその表情を窺い知る事は出来ない。

しかし、その足取りから十分すぎる程に、名雪の心情を感じ取る事が出来る。

名雪の存在に気づいた旧友達が顔を上げ挨拶を交わそうとするが、

皆一様に名雪の何時もとは違う雰囲気に声を掛けあぐねている。

自分の席へと辿り着いた名雪はその椅子にまるで崩れ落ちるかのように腰を下ろす。

教室の中に広がる言いようの無い緊張感。

皆の視線がただ一人、名雪に向けて集中していた。

勿論、あたしの視線も。

それはそうだろう、朗らかを絵に描いたような名雪が之ほどまでに落ち込んでいるのだ。

普段名雪とは親しくない者でも何かあったのではないかと思う事だろう。

そして何より、何時もはその隣に名雪を守るかの如く立っている相沢君の姿が、無い。

多分皆はその事から二人がケンカでもしたのではないか、そう思っている事だろう。

でも、それは違う。

そうではないと言う事が、あたしには解る。

何故ならあたしは、今まで幾度と無く二人の、それこそ犬も食わないような遣り取りを見てきたのだから。

相沢君と名雪、二人の関係は、そう、あたしと栞、その関係のそれに近い。

あたしと栞、姉と妹、姉妹。

相沢君と名雪、兄と妹、兄妹。

相沢君と名雪、二人は本当の兄妹、

いいえ、『本当の』何て言葉は要らない、二人は正しく兄妹だったのだから。

………いや、それも性格違う。

二人はそれほどまでに『兄妹であろうとした 』のだ。

二人の、その生い立ちゆえに。

決して触れてはならない不可侵の領域。

その領域の上に、二人の兄妹と言う関係は成り立っていた。

だから二人は、必要以上に兄妹であろうとした。

そして、その関係を成り立たせるだけの信頼感が、二人の間には結ばれていた。

二人は確かに今まで幾度と無くケンカをしてきた。

そしてその度に、その信頼感を強く確かな物へと作り変えてきた。

あたしは何時もその様子を、時には笑いを、時には怒りを、時には涙を浮かべ、見詰めてきた。

だからあたしには解る。

これがただのケンカなどではないと言う事に。

ケンカなどでは済まされない、只ならぬ事態が起きていると言う事に。

犯してはならない領域に踏み込んだ何かが起きたのだろうと言う事に。

それはつまり、あたしの知らない何かが、

あたしには考え付かない何かが、二人の間に起こったと言う事。

もしかすると、あたしなどでは解決出来ないかもしれない何かが。

だからあたしは、その何かを確かめる事にした。

あたしに出来る事は何も無いかもしれないけど、

でも、それでも、あたしは何が起きたのか確かめる事にした。

だって二人は、相沢君と名雪の二人は、あたしの大事な友人なのだから。

意を決して立ち上がり、あたしは名雪の下へと近づいていく。

あたしの親友、名雪の事が心配だから。

あたしの友人、相沢君の事が気がかりだから。

だからあたしは、名雪に声を掛ける。

「おはよう、名雪」

極めて、普通に。

「今日は随分と早い登校なのね?」

務めて、何時も通りの声に聞こえるように。

「名雪がこんなに早く学校に来るから皆が驚いているわよ?」

それはとても難しい事だったけど、それでもあたしは搾り出すようにその言葉を口にした。

あたしの挨拶に名雪はゆっくりとこちらに振り返り、

「おはよう、香里」

ただ一言、そうとだけ言葉を返した。

そう、本当にただ一言だけ。

何時ものように柔らかな笑顔を浮かべる事も無く、それどころか視線さえ合わさずに。

あたしは自分の顔が凍りつくのを実感する。

名雪のあまりの様子に。

あたしの予想以上に変わり果てた名雪の姿に。

「ね、ねえ名雪、相沢君は如何したの?今日は一緒じゃないのね?」

言ってから直ぐに、失言したと顔を顰める。

あまりにも直接な言葉。

もっと遠まわしに聞くべきだった。

自分で思ってる以上にあたしも深く動揺しているようだ。

そしてあたしの予想通り、名雪はその言葉に激しい反応を示した。

ビクリ、と、

体が震えるほどに肩を震わせる。

「ゆう…いち…?」

微かな、呟き。

「ゆういちは……ゆういちが……」

そして名雪があたしを見上げる。

ゆっくりと、緩慢な動作で。

今日始めて名雪とあたしの視線が交差して、そしてあたしはまたも表情を凍りつかせる。

いいえ、表情とは言わずに、身も、心も。

変わり果てた面持ちに、

澱み、濁ったその瞳に、

今までの名雪からは想像も出来ないその様子に、

あたしは正しく言葉すら無くしてしまった。

重い沈黙が教室内を包む。

今、教室に居る誰もがあたしと名雪の遣り取りに神経を集中していた。

それは単なる好奇心から来るものではなく、おそらくはあたしが何時もの名雪に戻してくれる事を願って。

この重い沈黙を打ち破ってくれる事を願って。

皆の視線はあたし達に集中していた。

その視線の先、しかしあたしは一言すら発する事が出来ずにいた。

名雪もそれ以上何も言う事無く、あたしを、いいえ、虚空を見詰めその虚ろな視線を彷徨わせている。

何か声を掛けなければいけない。

そう思いはするものの、しかしあたしの意に反してその口は一向に言葉を紡ごうとはしない。

とにかく、何か言葉を。

今、あたしの頭の中はその事だけしかなかった。

「な……」

如何にか口を開き、名雪の名を呼ぼうとしたその時、

「よ〜し、みんな〜、席に着け〜」

との言葉と共に担任が姿を現した。

その突然の言葉に心臓が跳ね上がり、そしてその人物、担任に向けて視線が集中する。

あたしだけではなく、教室に居た者全員の。

いいえ…、名雪を除いた全員、ね。

「……ど、どうした?一斉にこっちに振り向いたりして」

一斉に向けられた視線に戸惑いの表情を浮かべつつ、担任は教壇に向けて歩いて行く。

「あ〜、美坂、席に戻れ。

とにかく出席を取るぞ」

そう言って担任は出席簿を開く。

あたしは名雪と担任との間に数度視線を走らせた後、

結局それ以上名雪に何も言う事の無いまま自分の席に腰を下ろした。

何時までもこうしているわけにはいかないし、

それに今のままでは名雪にかける言の、その一言すら思い浮かばないからだ。

あたしは取り合えず、自分の心だけでも落ち着ける事にしたのだ。

そうする事しか、今のあたしに出来る事は無かったのだ…。



しかし結局、その後も名雪に対して書ける言葉を見つける事は出来ず、

そして名雪の様子が良くなる事は、、何時もの名雪に戻る事は、無かった。

いや、それどころか時間が経つにつれて名雪の様子は酷くなっていくように感じられた。

しかしそれが解っていても、あたしには何もする事が出来ない。

名雪に掛ける言葉すら見つける事が出来ない。

不安と苛立ちだけが募る中、無情にもただ時間だけが淡々と過ぎていった。

そして、昼休み。

変化は唐突に訪れた。

ガタンッ!!

何かが倒れるような激しい音が教室内に木霊する。

その音に誘われるように目を向けると、

そこには、俯き、まるで机を睨むようにして立っている名雪の姿があった。

その名雪の後ろには先程の音の正体、

名雪が立ち上がった時に倒れたと思われる椅子が無残にも転がっている。

しかし名雪はその事を着にした様子も無く、じっと机を睨み、そして何事かを呟いていた。

「な、名雪…?」

その名雪の異様な様子に、あたしは席から立ち上がると恐る恐る声を掛ける。

「…の…んな…せい……」

しかし名雪はあたしの声が聞こえてないのか、ただじっと机を睨み、何事かを呟き続けている。

「名雪?名雪っ?!」

あたしは名雪の肩を掴み名雪の名を呼び名がら激しく揺する。

しかしそれでも名雪は、あたしに対して何ら反応を返そうとはしない。

まるで譫言の様に何事かを呟き続けるだけ。

「祐一が…祐一が居ない……。

あの女の…あの女の所為だ……」

その時初めて、あたしは名雪の呟く言葉をはっきりと耳にした。

相沢君が居ない?

あの女の所為?

一体何がどうなっているのだろうか。

今のあたしには何一つさえ理解する事が出来ない。

「名雪、名雪っ!!一体何がどうなって……」

何がどうなってるのよ!!

そう問い詰めようとして、しかしあたしは出来なかった。

問い詰めるどころか言葉を無くし、あまつさえ数歩後退ってしまったのだ。

名雪のその変わり果てた表情に、

嫉妬と情念に狂った、愛憎と狂気に彩られた女の表情に、あたしは言葉を無くしてしまったのだ。

「な、名雪…、貴女……」

その時、まるであたしの言葉が引き金になったかのように、弾けたかのように名雪が駆け出した。

級友を押しのけ、叩きつけるか如くドアを開け放ち、脇目も振らずに何処かを目指し駆け出していく。

「っ!!」

数秒の時間の後、我に返った私も弾かれたようにその場を後にする。

勿論、名雪の後を追う為だ。

教室を出て名雪が向かった方角に向けて駆け出す。

名雪は丁度、教室一つ分先を走っていた。

その後姿をあたしは必至になって追いかけていく。

流石は陸上部よね、混乱したあたしは場違いにもそんな事を考えてしまう。

と、その時、名雪の先に見慣れた人影を発見した。

それは、栞。

呆気にとられたような表情で自分に向かってくる名雪とあたしを見詰めている。

「栞っ!!とにかく名雪を追いかけてっ!!」

あたしがそう叫んだ時には、名雪は既に栞の隣を走り抜けていた。

栞は驚いたようにあたしと名雪に交互に視線を走らせ、

そして漸くあたしの言葉を理解したのか、ワンテンポ遅れて名雪の後を追い駆け出し始めた。

駆け出しはしたが、しかし生来より運動の苦手な栞はどんどんと名雪に引き離されていく。

その証拠に、程無くしてあたしは栞に追いついた。

「おっ、お姉ちゃんっ、一体、何がどうなってっ」

栞が息も絶え絶えに質問してくる。

「話は後っ。

今はとにかく名雪を追うわよっ」

あたしは栞に短く言葉を返し、そしてその場に栞を残して名雪の追跡を続ける。

後ろから栞の情けない声が聞こえるが、今のあたしには栞を待ってあげる余裕は無かった。

階を一つ降り、二つ降り、あたしは必至になって名雪の姿を追っていく。

そして廊下を曲がった少し先で、名雪は漸く立ち止まった。

一人の女性の前で、乱れた息を整えようともせず掴みかからんばかりの形相で。

「な、名雪……」

あたしは膝に手を付き肩で息をしながら、如何にか辛うじて名雪の名を口にする。

しかし名雪はあたしの言葉に答えようと、振り返ろうともしない。

ふと見上げた名雪は、敵を見るかのような表情でその女性を睨んでいた。

それにつられあたしの視線も自然とその女性に向けられる。

この人は……。

あたしはその女性に見覚えがあった。

数日前相沢君が倒れ掛かった、そして食堂で相席した事もあるあの女性だ。

あたしは直接言葉を交わした事は無いが、まず間違いないだろう。

でも、この女性と名雪の間に、そして相沢君との間に一体どんな関係があると言うのだろうか。

立った数日の間で名雪を之ほどまでも豹変させる出来事が、三人の間で起きたとでも言うのだろうか。

あたしがそんな事を考えていると、漸く栞があたしの所に追いついてきた。

「はぁ…、はぁ…、お、おねえ、ちゃん……」

息も絶え絶えにあたしを呼ぶ栞。

しかしあたしには栞の言葉に答える事は出来なかった。

それほどまでに二人から目を話す事が出来なかった。

と、その時、それまで名雪に向けられていた女性の視線が、一瞬だけあたしに、あたし達に向けられた。

それは本当に一瞬の出来事だったけれども、確かに女性の視線はあたしと栞の姿を捉えていた。

それはまるで、あたし達の姿を確認するかのように。

そしてその直後、名雪の叫ぶような声が人気の多い廊下に響き渡った。

「祐一を、祐一を返して!!」

相手の女性をきつく睨みつけ、名雪が叫ぶ。

相沢君を返して?

それはつまり、この女性の所に相沢君が居るという事?

「貴女が祐一を隠してるんでしょう!!

貴女の所為で祐一が帰ってこないんでしょう!!

祐一を帰して、わたしに祐一を返してよ!!」

そこが廊下だと言う事も憚らぬ、名雪の叫び。

その場に居た人達が何事かと二人の様子を遠巻きに眺めている。

名雪の叫びに対し、しかし女性は冷静な声で、その状況からは異常とも思える低く冷たい声で淡々と答える。

「いきなりやってきて、一体何の事を言ってるのかしら?」

低く冷たい声と、そして瞳。

それはともすれば蔑みとも取れる無機質な瞳。

あたしのその人に対する印象は最初にして最悪だった。

「惚けないで!!

やっと、やっと祐一はわたしの事を受け入れてくれたのに!!

やっと祐一はわたし達の本当の家族になったのに!!

祐一を帰して!!返してよ!!」

相沢君が名雪の事を受け入れた?

本当の家族になった?

如何言うことなの?

今までだって相沢君は名雪の事を受け入れていた。

今までだって相沢君は名雪達の家族として暮らしてきた。

一体、相沢君と名雪の間に何があったというの?

「貴女が何を言ってるのか私には解らないけど、私は別に祐一を隠したりはしてないわ。

貴女は祐一が受け入れてくれたって言ったけど、それは貴女の独りよがりじゃないの?

貴女の勝手な押し付けじゃないのかしら?

だから祐一は、貴女の前から姿を消した。

それは私の所為ではなく、全て貴女の自業自得でしょ?」

まるで嘲笑うように女性が名雪に言い放つ。

断言しよう、この女性に対するあたしの印象はこの上なく『最悪』だ。

「違う!!そんな筈ない!!

祐一は、祐一は!!」

何時しか名雪は目に涙を溜め、何かに耐えるように体を震わせていた。

「はっきりと言ってあげましょうか?」

名雪の言葉を遮り、女性が言う。

ゾクリ…。

酷く冷たい、直接相対している訳ではないあたしでさえ背筋に寒いものを感じるほどの冷たい瞳で、

その瞳で、蔑むかの如く名雪を見下ろして。

「貴女は、貴女達は捨てられたのよ、貴女の大好きな祐一に」

そして、言い放った。

その瞳の如く酷く冷たい、身の凍るような声で。

刹那の静寂。

あたしがその言葉の意味を理解した正にその時、

パーーーンッ!!

酷く乾いた音が廊下に響き渡った。

「………え?」

あたしは呆気に取られ思わずそう叫んでいた。

その光景は、それほどまでに衝撃的なものだった。

「はぁ…、はぁ…、はぁ…、

嘘だよ……、そんなデタラメ言わないで……、

祐一はわたしの事捨てたりしない……、

そんなの嘘だよ……」

押さえ切れぬ涙を流し肩で息をしながら名雪がその女性を睨む。

対する女性は相変わらず冷たい表情で名雪の事を見下ろしている。

その頬を不自然な赤い色に染めて。

ぶったのだ、名雪が、この女性を。

あたしは最初その光景が信じられなかった。

温厚を絵で書いたような名雪が人に手を上げるだなんて。

呆然とするあたしの意識を、その女性の冷たい声が現実に引き戻す。

「あら、御免なさい、図星だったかしら?」

ぶたれた頬を気にする事無く、あの冷め切った瞳ではっきりと侮蔑の言葉を名雪に投げる。

「っっっ!!」

もう一度、名雪の体が動いた。

「名雪っ!!」

敏感にそれを感じ取ったあたしはほぼ無意識の内に名雪の手を掴んでいた。

「っ!!

離して、離してよ香里っ!!」

あたしの手を振り解こうと名雪が身悶える。

しかしあたしはその手を離さず、名雪を落ち着かせる為に名雪の体を押さえつける。

そう、あくまで名雪の為に。

人気の多いこの場所で名雪がこれ以上暴れれば、名雪に対して良くない噂が広がってしまうからだ。

それは生徒だけでなく、教師に対しても。

だからあたしはこれ以上騒ぎが大きくならないよう、名雪を落ち着かせる為暴れる名雪を押さえつけたのである。

もしここに人が居なかったら、名雪に代わってあたしがこの女性を張り倒していた事だろう。

そんなあたしの心を知ってか知らずか、その女性は名雪とあたしを一瞥した後、

もはや興味などは微塵も無いと言うかの様な表情でその場を後にする。

そしてあたしの横を通り過ぎ際、これ見よがしに言葉を残していった。

「貴女も大変ね、こんな友人を持って」

その言葉にあたしの頬が激しく紅潮する。

他の何物でもない、怒りの感情によって。

でもあたしはその事に対して一言も反論を返す事は無かった。

いや、返せなかった。

あたしの腕の中で暴れる名雪を抑えるのにあたしは必至になっていたから。

とにかく今は、この場を治める事が先決だとあたしは結論付けたのだ。

あたしは悔しさに歯を噛締め、しかし務めて優しく名雪に声を掛けるのだった。

あたしの親友を、名雪を侮辱した落とし前は必ず付けて貰うわよ、

そう、心に刻みつけながら。

それがこの女の仕組んだ周到な罠だとは気付かずに、

あたしは激しい復讐心に心を奪われていた。

あたしは目先の事に心奪われ、大切な事を見落としていたのである。

あたしの一番大切な者、あたしが守らなければいけない者、掛け替えのないあたしの妹、

――― 栞 ―――

この女の目が栞に向けられているという事に、

この女の目的が栞であると言うことに、

この時のあたしは気づく事が出来なかった。

それが栞と、そしてあたしをも闇に引きずり込む周到な罠だとは、この時のあたしは気付く事が出来なかったのである。



「ふふふ…、本当に、大変よね、心配性な姉を持つと。

ねえ……、栞ちゃん………」



つづく

あとがき

名雪、大暴れ。

と言うか、もう人が変わってます。

その名雪に対しあくまで冷やかに対応する葛葉。

何時もの葛葉ならば一笑に付して名雪を相手にしないところです。

その葛葉が態々名雪の相手をした上に黙って頬を打たせた、

それには大きな理由があります。

簡単に言うと、香里の目を自分に向けさせる為ですね。

それも必要以上に、自分だけに。

そうする事で周りの変化に気付き難くする為に。

そしてその隙に……。

因みに、葛葉の最後の台詞は自分も含めた上での皮肉、です。