Kanon SS



血塗られた螺旋の絆
第十五話



窓から差し込む光に促され、俺は目を覚ました。

見慣れない、部屋だ。

俺は身を起こし辺りを見回す。

そして、納得する。

自分の身が置かれている状況に。

そして、改めて思い知る。

自分の身に起きた出来事を。

ここは葛葉さんの家、

葛葉さんに宛がわれた俺の部屋だ。

葛葉さんは私『達』の家だと言うが、

微かな記憶の断片しか持たない俺は『自分の家』と言う言葉にどうしても違和感を覚えてしまう。

何気なくその事を口にしたら、

「直ぐに慣れるわ」

葛葉さんは笑顔でそう答えてくれた。

『直ぐに慣れる』

その言葉に込められた、意味。

その言葉が表す、事実。

ここは葛葉さんの家。

俺達の家。

全てから逃げ出した俺に残された、唯一の居場所。

全ての終わりの場所であり、

そして、全ての始まりの場所だ…。



畳に敷かれた布団の上で止め処ない思考を繰り返していると、

静に、ゆっくりと、襖の戸が開けられた。

「あら、もう起きていたの?」

そんな、少し意外そうな言葉と表情で葛葉さんは襖に手をかけている。

「折角、祐一の寝顔が見れると思ってたのに」

からかう様な微笑を浮かべ部屋の中に入ってくる。

そして俺の隣に跪くと、

「如何?良く眠れたかしら?」

もう一度微笑んだ。

心に温かくしみる、柔らかな笑顔で。

「……うん」

その笑顔に見蕩れ、少し惚けたような返事を返してしまう。

「ふふ…、本当に良く眠れたみたいね。

良かったわ」

それを寝ぼけてると勘違いしたのだろうか、目を細めそっと頷く。

「長い時間雨に当たっていたから風邪を引くかと心配していたけど、それも大丈夫みたいね。

如何?気分が悪かったりしない?」

首を傾げ尋ねる言葉に、俺は頷く事で返事を返す。

「そう、だったら朝食は如何する?

もう少しで朝食が出来るから呼びに来たんだけど」

そう言って葛葉さんは俺を見詰め言葉を待っている。

改めて葛葉さんを見ると葛葉さんは学校の制服にエプロンと言う姿だった。

つい、そのエプロン姿を見つめてしまう。

こういう言い方は失礼かもしれないが、そのエプロン姿は中々様になっていた。

「態々朝食を作る為だけに着替えるのも面倒でしょ。

かと言って、流石に寝間着にエプロンは横着すぎるじゃない。

だから間を取って、制服にエプロンで、ね」

俺の視線に気づいた葛葉さんが少しはにかむように首を傾げる。

「似合ってる」

気付けばそんな言葉が口をついて出ていた。

「………え?」

そんなに意外な言葉だっただろうか、何を言ったか解らない、葛葉さんはそんな表情を浮かべる。

「似合ってますよ、エプロン姿」

念を押すようにもう一度呟く。

そこで、俺は気づいた。

二度もその言葉を口にした後で、漸く気付いた。

もしかして、自分は物凄く恥ずかしい事を言ってるのではないか、という事に。

今更ながらに恥ずかしさの込上げてきた俺は誤魔化すように顔を背ける。

その俺の背後に、

「クス…」

と押さえ切れない含み笑いが聞こえる。

その含み笑いに、俺の顔は一層の赤みを増す。

「朝ご飯、食べるでしょう?

居間で、座卓のあった部屋で待っていて頂戴。

直ぐに用意を済ませるから」

しかし葛葉さんはそれ以上その事を追求する事はなく、そう言残すとその場に立ち上がる。

葛葉さんの追撃を逃れる事が出来た俺は、自然と溜息を付いてしまう。

と、その時、

「祐一」

まるでそれを見透かしていたかのように名を呼ばれた。

自然と、その言葉に誘われるように、俺は葛葉さんを見上げる。

「和食、大丈夫?」

一瞬、何を聞かれたのか解らなかった。

しかし直ぐに、その言葉が朝食の事を、朝食の好みの事を指していると気付く。

俺はただ無言で頷いた。

「そう、良かったわ」

その言葉を最後に、葛葉さんは部屋の中から姿を消す。

優しい、とても優しい微笑を残して。

部屋に静寂が戻る。

一人に残された俺は、もう一度ぐるりと部屋の中を見回した。

聞こえてくるのは、小鳥が囁く囀りの声。

清々しい、朝だ。

目に入るのは、朝日によってその姿を浮かび上がらせるカーテン。

今日は、良い天気のようだ。

それは穏やかな、朝。

至極普通の、朝。

でも、何時もとは違う、朝。

何もかもが変わってしまった、朝。

それはとても些細な違い、そして、決定的な違い。

俺はもう二度と、何時も通りの朝、それを取戻す事は出来ない。

そう、もう二度と……。



「はい、お待ち遠さま」

コトッと、俺の前に味噌汁が置かれる。

そしてその味噌汁を最後に、朝食の全てのメニューが俺の前に出揃った。

御飯、焼き魚、味噌汁、厚焼き玉子、

それは標準的な朝食のメニュー。

そしてそのどれもが食欲を誘う良い香りを漂わせている。

俺はついまじまじと、その並べられた朝食に見入ってしまう。

「どうしたの、料理をじっと見詰めたりして。

私が料理出来るのがそんなに意外かしら?」

図星を突く葛葉さんの言葉。

「あ、いや、別にそんな意味じゃ…」

思わず少し吃った声で返事を返してしまう。

「こんな本格的な料理が出てくるとは思わなくて…」

言ってから気付いたのだが、全然弁解の言葉になってなかった。

しかし葛葉さんは俺の言葉を気にした様子はなく、ただクスリと小さな笑みをその顔に浮かべる。

そして、

「中学の終わりからずっと一人暮らしだったし、

それに一人になる前も料理は私の仕事だったから。

だから、ね、自然と覚えたわ」

と、何でもない事のように言う。

本当に、表情の一つすら変える事無く。

しかし、葛葉さんの言葉は俺の心に重く圧し掛かった。

『ずっと一人』

その言葉の、意味。

その事を顔色一つかえず話す、葛葉さん。

言いようのない罪悪感の様な物が、胸の中で激しく渦巻く。

その俺の心を察したのか、

「はい、ご飯。

冷めない内に頂きましょう。我ながら、味には自信があるのよ。

と、ご飯の盛られた茶碗を笑顔を浮かべ差し出してくる。

気にする事は無いわ、と言うかのように微笑んで。

俺はその茶碗を無言で受け取る。

何か言葉をかけようと思ったが、結局何も口にする事は出来なかった。

葛葉さんの笑顔を、全てを見透かすような瞳を見ると、

俺は何も言葉を紡ぐ事が出来なくなった。

受け取ったご飯、そして並べられたおかず、その全ては葛葉さんの言葉の通り、

どれもとても美味しいものだった。



朝食を摂り、葛葉さんの入れてくれたお茶を啜っていると、不意に葛葉さんが口を開いた。

「祐一、今日は学校を休みなさい」

湯飲みを両手で包むように持ち、真っ直ぐに俺を見詰めてくる。

「風邪は引いてないようだけど念の為に、ね。

それに、学校には今はまだ会いたくない、会い辛い人も居るでしょう。

貴方の気持ちが落ち着くまで、それまで、学校は休みなさい」

真剣な、しかし落ち着いた、優しく諭すような声。

「………」

俺はただ黙って頷いた。

学校に行けば、否が応でも名雪と出会ってしまう。

名雪とは学校も学年も、クラスも一緒なのだから。

それは、それだけはどうしても避けたかった。

俺には、名雪に会う資格なんて無い。

どの面下げて、のこのこと名雪の前に姿を現せというのか。

そして俺は、名雪に会うのが怖かった。

脳裏に浮かぶ、あの日の情事。

家族のように、妹のように思っていた少女の、快楽を求める女の姿。

その求めに答え、幾度と無くその体を穢した自分の姿。

変わってしまった名雪、

この手で変えてしまった名雪、

俺が壊してしまった名雪、

その名雪を見るのが、俺はたまらなく怖かったのだ…。


「じゃあ、私はそろそろ学校に行くから」

洗物を済ませた葛葉さんが居間に戻ってくる。

その言葉に、何時の間にか伏せていた顔を上げ、俺は葛葉さんを見遣る。

葛葉さんは掛けていたエプロンを外し手櫛で髪を直していた。

「出来る事なら、今日は家で過ごしなさい。

一応、風邪で休みという事になってるのだから。

どうしても外出したい用事があるのなら、鍵を預けておくけど」

葛葉さんの言葉に俺は頭を振り答える。

外をうろつく様な気分には、とてもではないがなれそうも無い。

「そう…、そうね……」

そう呟き、差し出そうとした鍵を今一度ポケットに仕舞う。

「でも一応、今日の帰りにでも合鍵を作っておくわ。

他に何か欲しい物は無い?何かあるなら買っておくけど」

俺はもう一度首を左右に振って答える。

「そう?遠慮ならしなくても良いのよ?」

私達は家族なんだから、と微笑を浮かべる。

「いや、良いよ。本当に何も無いから…」

何も無いと言うより、そんな事を考えられる心境では無いだけだった。

「そう、だったら私が適当に見繕って何か買ってくるわ。

祐一の好きそうな物を、ね」

そう呟き、葛葉さんは壁に掛けられた時計に目を向ける。

「もう、時間ね。そろそろ出掛けないと」

テーブルに手を付き、立ち上がる。

その動作につられる様に、何気なく葛葉さんを見上げる。

「祐一」

名を呼ばれ、正面から向かい合った。

とても真剣な、射抜くような葛葉さんの瞳と。

「多分…、いいえ、ほぼ間違いなく、私の留守中に秋子さんが訪ねて来ると思うわ」

秋子さん

その名に、俺の体が激しい動揺の反応を示す。

「秋子さんはこの家の場所を知ってるから。

そして間違いなく、祐一はここに居ると考え、そして訪ねて来る筈」

決して抗えない焦燥感が俺の身を包み、鼓動が早鐘のように脈を打つ。

気付かぬうちに全身に力が入り、握り締められた手が白く変色していく。

如何すればいい…

困惑と焦燥でまともな思考を無くした俺は訴えるような視線で葛葉さんを見詰める。

と、不意に、葛葉さんの射抜くような真剣な瞳が、俺を安心させるかのようにスッと優しく和らいだ。

「そんな顔しなくても大丈夫よ。

尋ねて来たとしても、祐一が姿を現さなければ何も起きないのだから。

まさか秋子さんも玄関を壊してまで家に入ろうとはしない筈だから。

だから、もし誰かが来た気配を感じたらじっと息を殺してなさい。

それが例え誰であろうとも。

下手なセールスの相手なんてしたくないでしょう?」

おどけたように首を傾げ微笑む。

他の誰でもない、俺を安心させる為に。

「だから、家の中でじっとしてれば大丈夫、何も問題は無いわ。

ただ、いきなりだと祐一も慌てるでしょう?

だから前もって教えておいたのよ、秋子さんが来るであろう事を。

ただ、それだけ。何も心配する事は無いのよ」

そう言って、微笑む。

その言葉に、俺の体から力が抜けていく。

あれほどこの身を焦していた鼓動と焦燥感も、嘘のように静まっていく。

俺に向けられた、葛葉さんの言葉によって。

俺が落ち着いたのを認め、葛葉さんは鞄に手を伸ばす。

「じゃあ、本当に出掛けるから」

そう言い残し葛葉さんは玄関に足を向ける。

俺は葛葉さんを見送るべく立ち上がり、そして後を追う。

靴を履き終え、そして俺の気配に気づいた葛葉さんは玄関の前で俺に振り返る。

そして、俺を見詰め念を押すように口を開いた。

「私が出たら、もう一度戸締りの確認をしておいてね。

さっきも言ったけど、誰が尋ねてきても絶対に出ない事。

一応、電話も出ないでおきなさい。

それから、家の中にあるものは何を使っても良いけど、あまり散らかさないでね」

まるで母親が幼子を諭すような言葉。

その言葉に思わず俺の顔に苦笑いが浮かぶ。

「ふふ……」

俺の困ったような笑みに、葛葉さんも笑みを零す。

「じゃあ、ね」

身を翻し、葛葉さんが玄関の扉に手を掛ける。

その後姿に、俺は自然とその言葉を口にしていた。

ガラガラガラ……
「いってらっしゃい」

扉の開く音と、俺の声が重なる。

それはとても小さな声だったけど、重なり、掻き消えてしまうような声だったけど、

でも、葛葉さんの耳には確りと届いたようだ。

葛葉さんはゆっくりと振り返り、

「行ってきます」

そう呟き、微笑んだ。

優しい、とても優しい笑顔を、

今まで見てきた中で一番の、優しい笑顔を浮かべて。



一人になった俺はベットの上に身を投げ出し、ただ時計の奏でる時の音に耳を傾けていた。

何も、する気が起きない。

僅かに身を動かす事さえ億劫に感じられる。

何も考えず、何も感じず、何も思い出さず…。

今はただ、こうして静かな時の中に身を漂わせていたかった。

そう、せめて今だけは……。

カチ…カチ…カチ…

普段は気にも留めない時計の音が、今はやけに大きな音に聞こえる。

寸分の狂いも無く、一定のリズムを刻み続ける音。

その規則的な時計の音が、何故だか俺にはとても心地良く感じられた。

俺はその規則正し音の波に包まれながら、

夢とも現ともつかない微睡みの中を何時果てる事も無く延々と彷徨い続けていた。

どれくらい、そうしていただろうか。

その静寂が不意に破られた。

ピンポ〜ン……

来客を告げる電子音が、家の中に響き渡る。

その音に俺の意識は覚醒し、瞬時に現実へと引き戻される。

まさか……

俺の脳裏に即座に一つの答えが導き出される。

秋子さんが……?

その答えに俺の体は独りでに震え始める。

ピンポ〜ン……

俺の心を激しく揺する音が、もう一度なり響いた。

だが、在宅者に向けられる呼びかけの声は、無い。

もしこれがセールスや郵便関係の人ならば、

在宅を確認するべく、そして己の存在を知らせるべく、何かしらの呼びかけをする筈だ。

それが、無い。

呼びかけが無い、ただそれだけの事。

しかし、混乱した俺の思考はその事を唯一つの答えへと導き、そして結びつける。

俺は耳を塞ぎ全てを拒むかのように身を縮みこませる。

ピンポ〜ン……

しかし、いくらきつく耳を塞ごうとも、その音はまるですり抜けるが如くその響きを俺に伝える。

一定の区切りを置いて鳴り続ける電子音。

電子音が鳴る度に、俺は心臓を鷲掴みにされる様な錯覚に襲われる。

訪問者が立ち去る様子は今だ無い。

俺は意を決し、物音を立てぬよう部屋を出る。

その人物が誰かを確認する為に。

玄関へと続く廊下を息を殺して進み、廊下の角からそっと顔を覗かせる。

その先、玄関の磨りガラスに浮かび上がる、一人の女性の姿。

そう、それは正しく女性の姿。

磨りガラスを隔ててもはっきりと解る女性の姿だった。

その磨りガラスに浮かび上がる影は、否応なく一人の女性を思い浮かばせる。

いや、そうじゃない、あの人は間違いなく……

秋子さんだ。

俺は覗かせていた顔を戻し、壁に身を預け、静に、深く、息を吐き捨てる。

その時、

「祐一さん」

名を、呼ばれた。

体が、心臓が、心が、跳ね上がる。

気付いている?!俺がここに居る事に?!

「本当に、居ないのですか……」

その後に続く秋子さんの声。

秋子さんは俺の存在に気づいた訳ではなく、独白、独り言だった。

俺の体から一気に力が抜け、ズルズルと滑り落ちる。

廊下に横たわる俺の耳に、秋子さんの独白が続く。

「祐一さん…、何故、居なくなったのですか……。

何故、私と名雪から逃げるのですか……」

酷く静かな、まるで感情の篭ってない声。

初めて聞く、秋子さんの声。

それは他の誰でもない、俺が言わせているのだ。

「祐一さん…、待て、ます……。

ずっと、待ってますから……。

私は絶対に、貴方を、諦めません……。

絶対に、諦めません……」

涙が零れた。

理由なんて解らない。

ただ、止める事の出来ない涙が、俺の頬を濡らし続ける。

様々な感情が入り混じり、必至に嗚咽の声を噛殺して、

俺はその場で蹲り、何時までも、何時までも、涙を流し続けていた……。



夕刻。

空が、町が、全てが朱に染まる時刻。

そしてここ、相沢家も、例外なく全てが朱に染まっていた。

その廊下に佇む、一人の人影。

廊下に長く伸びる夕日を浴びるその人影は、まるで眠っているかの如く微動だにしない。

カツ、カツ、カツ……。

その家に近づく、一つの足音。

長い影を尾の如く引くその女性、

手には鞄と、買い物袋が一つ、ぶら下げられている。

相沢家の玄関に辿り着いたその女性はポケットを探り何かを取り出す。

この家の、鍵だ。

ガチャッ…、ガラガラガラ……。

鍵を開け、玄関の引き戸を開く。

そして足を踏み入れ、その先に佇む人影に気付き、足を止める。

「……祐一?」

その姿を確かめるように、名を呟く。

「………祐一?」

もう一度、何かを確かめるように。

その言葉に反応し、祐一が葛葉に振り向く。

その顔に、笑顔を浮かべて。

「如何したの?そんな所で」

それに応える様に微かな笑みを浮かべ、そして尋ねる。

その言葉に、祐一はゆっくりと口を開く。

「待ってたんだよ…、葛葉さんを……。

一人で家に居るのは、退屈だからさ……。

そう、一人は、退屈なんだ……」

全ては、ゆっくりと、

そう、ゆっくりと、全ては、壊れていく。

ゆっくり、ゆっくりと……。



つづく

あとがき

今回は割りとまったり気分で。

一部、まったりじゃない所もありますが、今までに比べれば、はい。

何時も
あんな状況が続くと流石に疲れますからねぇ…。

って言うか、疲れるじゃ済まないと思いますけど。

とにかく、今回はまったりと。

まったりと、確実に、何かが壊れていきます……。

さて、次回の血塗られた螺旋の絆は?

『姉妹は見た!!親友の豹変!!壮絶なる女の戦い!!二人の女の求める真実とは!!』

をお送りします。

次回もまた、見てくださいね〜。