Kanon SS



血塗られた螺旋の絆
第17話



私は幼い頃、よく病に臥せっていました。

今でも体は強い方ではないけれど、

体育は見学だしよく病欠もするけれど、

幼い頃に比べれば随分健康になったと思います。

そう思えるほどに、幼い頃の私は本当に体が弱かったから。

入退院を繰り返したのも一度や二度ではありません。

だから幼い頃の私の記憶は、その殆どが殺風景な病室から覗く外の風景だけです。

そう、幼い頃は日々の大半を代わり映えのしないベットの上で過ごしていたのだから。

だからだろうか、私は小さな頃から物語が好きだった。

それは絵本だったり漫画だったり、小説だったりテレビドラマだったり。

年齢の移り変わりと共にその対象は変わっていったけれど、私が物語が好きだという事だけは変わりません。

私は幼い頃から、そして今でも、物語に、物語の様な恋愛劇に憧れてきました。

お姉ちゃんに言わせると、私は夢見がちな、もしくは恋に恋する少女、なのだそうです。

自分でもそれは認めています。

物語の世界のように世の中が奇麗事ばかりではない事は、

物語の世界のように何もかもが自分に都合よく行く筈がない事は、

私は良く知っているから。

私自身がその事を何度もこの身で体験してきたのだから。

病院のベットの上で、何度と無く体験してきたのだから。

自分の体さえ自分の思う通りにはならないという苦しみを。

その反動なのでしょう、だからこそ私は、漫画の様な、小説の様な、そしてドラマの様な物語に、

夢物語の様な恋愛劇に強く強く憧れ心引かれてしまうのです。

心の何処かで冷やかに現実を見詰めつつも、

私はその憧れを捨ててしまう事が出来ないのです。

だから私は、ドラマの様な恋愛劇を夢見続けます。

お姉ちゃんに現実はそんなに甘くないわよと窘められても、

お姉ちゃんにいい加減にしなさいと怒られても、

お姉ちゃんに子供っぽいわねと呆れられても、

私は、ドラマの様な恋愛劇を夢見続けます。

夢見るだけならいくらでも、そして私には夢見る事しか出来ないのですから。

そう、私は夢を見続ける。

何時か、ドラマの様な大恋愛ができます様にと。

何時からか、

何時からか深く慕うようになっていた祐一さんと、

ドラマの様な恋愛ができます様にと、

私は、夢を、見続ける……。



そんなある日、唐突に訪れた、異変。

いや、きっと兆しはあったのでしょう。

ただ、それに気付けなかっただけ。

気付こうと、しなかっただけ。

それまでの日々が、あまりにも穏やかだったから。

ある日の昼休み、祐一さんが倒れた。

何かにもがき苦しむように、きつく胸を押さえながら。

偶然通りかかった上級生の女性に凭れ掛かって。

廊下に横たわる祐一さんの表情は本当に真っ青で、

その表情から祐一さんが如何に苦しんでいるかが窺い知れた。

きっと、その場に居た人達でそれが理解出来たのは、

本当の意味で理解出来たのは、多分、私だけでしょう。

祐一さんが苦しんでいる原因は解らない。

だけど、どれ程までに苦しんでいるかは、解る。

何故なら、私も、幼い頃に同じ様に何度も何度ももがき苦しんだのですから。

病院のベットの上で、一人、寂しく。

だから私が、私だけが、祐一さんの苦しみを本当に理解できる。

祐一さんが、如何に耐え難い苦しみに苛まされているかと言う事に。

その事に

私だけが

本当の祐一さんを

その苦しみを

理解できる

私は保健室へと運ばれる祐一さんの背中を見詰めながら、

何度も何度も、そう心の中で、

呟き続けた。

私が、私だけが、

祐一さんの事を理解出来ると。

そう、まるで物語の主人公のように、私だけが理解出来る、と。



祐一さんの体調不良。

それは些細な出来事の結末では無く、

これから起こる出来事の発端、幕開けでしかありませんでした。

そして、一度幕を開けてしまえば後はあっと言う間でした。

祐一さんが倒れた日を境に、

『ここ、良いかしら?』

まるで何かを暗示するかのように、私達の前に姿を現すようになった女性。

『ねえ、祐一?』

祐一さんの事を祐一と呼び捨てる女性。

『…………』

まるでその女性から、その女性の視線から逃れようとするかのように俯く祐一さん。

『何でも、何でもないから……』

日増しに、様子が豹変していく祐一さん。

私も、お姉ちゃんも、名雪さんも、あゆさんも、二人の関係を不信に思いこそすれ、

しかし、直接祐一さんに聞く事も出来ず、ただ無駄に過ぎる時間と共に不安だけを募らせていました。

そして、週が明けて、月曜日。

事件は、起こりました。

祐一さんが学校を休んだ。

私がその事を知ったのはもう放課後を迎えた頃であり、

そしてその事自体は別に事件でも何でもありません。

だって、祐一さんは先週倒れたばかりなのですから。

週末にまた体調を崩したとしても、別にそれはおかしな事ではありません。

そう、事件とはもっと別の事。

しかし、その事件が起こったからこそ、

その事件を起こしたのがあの二人だからこそ、

祐一さんが学校を休んだという事に私は例えようも無い不安を覚えてしまうのです。

その事件の当事者とは、

それは名雪さんと、あの女性。

祐一さんと何らかの係わりを持つと思われる、あの女性なのだ。

その日のお昼休み、

私は何時ものようにお姉ちゃん達と昼食を取ろうと二年の教室を目指して歩いていました。

今日は祐一さんは私達と一緒にお昼を食べてくれるかな、そんな事を考えながら、

そうなれば良いな、と胸を躍らせながら廊下を歩いていました。

そしてもう少しで二年の教室が見えてこようかと言う時、

私を迎えたのは、

物凄い勢いで駆けて来る名雪さんと、

『栞っ!!とにかく名雪を追いかけてっ!!』

そう叫び、名雪さんの後を追うお姉ちゃんでした。

私は何が起きているのか解らず、思わずきょとんとした表情で立ち尽くしてしまう。

その私の脇を猛スピードで駆け抜けていく名雪さん。

その後を追いかけるお姉ちゃんも直ぐ傍、私の眼前に迫っています。

何が起きているのか解らない、

でも、考えるのは後でも出来る、

そう結論付けた私はとにかく名雪さんの後を追いかけて駆け出しました。

しかし、今更ですが私は運動が大の苦手、

みるみる名雪さんに引き離され、そしてお姉ちゃんにも追いつかれます。

『おっ、お姉ちゃんっ、一体、何がどうなってっ』

息も絶え絶えに、私はそうお姉ちゃんに尋ねます。

でも、返ってきた言葉は、

『話は後っ。

今はとにかく名雪を追うわよっ』

でした。

こんな事なら無理して聞かなければ良かった。

これではただ呼吸を一層荒くしただけです。

そんな事を考えながら私は、とにかく二人の後を追い続けました。

目に見えて遠くなっていくお姉ちゃんの後姿を必至に追い続けました。

階を一つ二つと一気に降りるのは本当に洒落にならなかったけど、

私は必至に二人の後を追い続けました。

そして漸く、私は二人に追いつく。

階段を下り廊下に出たその先で、名雪さんは一人の女性を前にして、

そしてその名雪さんの後ろでお姉ちゃんが乱れた息を整えていました。

『はぁ…、はぁ…、お、おねえ、ちゃん……』

漸くお姉ちゃんに追いついた私は息も絶え絶えにそう話しかけます。

しかし、お姉ちゃんからは何の返事も帰ってきませんでした。

不思議に思い、如何にか息を整え顔を上げたその時、

『祐一を、祐一を返して!!』

名雪さんの声が廊下に響き渡りました。

……えっ?

私は最初、名雪さんの言葉の意味が理解出来ませんでした。

祐一を返して

確かに名雪さんはそう叫びました。

如何言う、事でしょうか?

私が混乱に陥っている間にも名雪さんの言葉は続いていきます。

『貴女が祐一を隠してるんでしょう!!

貴女の所為で祐一が帰ってこないんでしょう!!

祐一を帰して、わたしに祐一を返してよ!!』

名雪さんの言葉は私を一層の混乱へと導いていく。

あの女性が祐一さんを隠している?

祐一さんが帰ってこない?

祐一さんが名雪さんの所に、居ない?

その言葉のどれもが、私にはとても信じられないものでした。

祐一さんと名雪さんと、そして秋子さん。

誰が見ても羨むほど仲の良い家族。

でも、この女性の言葉を信じるなら、

そして名雪さんの行動から推測するなら、

祐一さんが水瀬家を出た、そしてそのまま帰ってきていない、という事。

それは、私にとってとても信じられない事。

でも二人の言葉が、二人の雰囲気が、それが事実だと私に突きつける。

そして、その信じられない言葉は、それで終わりではありませんでした。

『はっきりと言ってあげましょうか?』

低く冷たい、冷めきった声。

『貴女は、貴女達は捨てられたのよ、貴女の大好きな祐一に』

そして囁かれる、氷の如き言霊。

もう私には何が何だか全く理解出来なくなりました。

名雪さんの様子も、

この女性の言葉も、

何もかもが私を混乱へと導いて行きます。

祐一さんが、名雪さんを、捨てた。

その一言だけでも私を混乱の坩堝に落とすには十分すぎるのに、

混乱に言葉を無くす私の目の前で、

更に信じられない出来事が、

確かな現実の出来事として起こったのでした。

パーーーンッ!!

そんな乾いた音が廊下に響き渡りました。

私は息を飲んでその光景を見詰めます。

名雪さんが、その女性の頬を、打った。

それは私にとって何よりも信じられない光景でした。

あの優しい名雪さんが、

何時も朗らかな笑みを絶やさない名雪さんが、

人の頬を、打つなんて。

それはとても、信じられない光景でした。

シンと沈みかえる廊下。

その廊下に響き渡る、女性の声。

『あら、御免なさい、図星だったかしら?』

感情の全く無い、冷たく蔑む様な声。

その言葉に名雪さんがもう一度、手を振り上げた。

その名雪さんの手をお姉ちゃんが掴み、そして止める。

それは恐らく、名雪さんを思っての行為。

その証拠に、その女性に向けるお姉ちゃんの視線は敵意に満ち溢れているから。

でも、その女性は、そんなお姉ちゃんの視線も、そして名雪さんの事すらもまるで気にした様子は無く、

一度だけ一瞥した後、何事も無かったかの様に身を翻しその場を後にします。

そう、私とお姉ちゃんの横を通って。

そして女性はその去り際に、まるで当てつけるかのように言葉を囁く。

『貴女も大変ね、こんな友人を持って』

瞬間、お姉ちゃんが身を固くするのが解りました。

名雪さんがお姉ちゃんの手を振り解こうとするのが解りました。

でも、私は、まるで魅入られたかのように身動きする事が出来ませんでした。

それはほんの一瞬の出来事。

そう、本当に一瞬だけ、その女性が私に視線を向けたのです。

その視線に私の体は凍りついたように動かなくなりました。

その瞳はとても冷たく、

全てを拒絶し、

全てを否定し、

全てに無関心な、

そんな瞳でした。

もしこの瞳に、真正面から見詰められたなら、

一体私は如何なってしまうのだろうか。

そんな事を考えてしまう程に、その女性の瞳は恐ろしいまでに冷たいものでした。

でも、その瞳の奥に、深い深い深遠の奥に、

まるで助けを求める様な想いが感じられたのは、

果たして私の気のせいなのでしょうか。

だけど、それを確かめる事は出来ませんでした。

瞳と瞳、交わされたのは一瞬の交錯。

気付いた時にはその人は既に私の前から姿を消していたのですから。

そしてその途端、まるで忘れていたかの様に色を取戻す喧騒。

その喧騒はまるで目に見えぬ何かを恐れるように、必要以上に騒いでいるように思えました。

非日常から日常への変換。

その境目は危ないまでに脆く、紙一重で、

常に二つは隣り合わせに存在している。

確かに、この場には日常が戻ってきました。

でも、私にとっては、

この時こそが、非日常の始まりだったのです。

やがて日常へと変わっていく、非日常の始まりだったのです……。



あの日から二日経った放課後、私は一人で部室に佇んでいました。

もともと部員が少なく、

と言うよりここ最近部室に顔を出すのは私とお姉ちゃんしか居なかった様な小さな部です。

顧問の先生さえめったな事が無い限り顔を出す事はありません。

だからお姉ちゃんが部活に出なくなった今、この部室には私一人しか居ないのです。

お姉ちゃんが部活に顔を出さなくなった、と言っても別に部活を止めたわけではありません。

あの日からお姉ちゃんは、名雪さんの傍に居るようになったんです。

殆ど付きっ切りで。

『ごめんね、栞。

今は名雪を一人にしておけないから』

それが最近のお姉ちゃんの口癖である。

お姉ちゃんの気持ちは良く解るし、それに私もそうするべきだと思うので、

ここ最近は一人で部活に出るようにしてるのです。

別に部活に出る必要も無いのですが、

どうせ家に帰っても一人です。

だったら、部活の喧騒漂う学校の方が幾分落ち着くから、

心を締める不明瞭な感情を幾らか紛らわす事が出来るから、

だから私は部活に顔を出すのです。

私は、自分で言うのもなんですが、友達が少ないです。

いえ、この言い方では語弊がありますね。

私の友人関係は広く浅い人が多い、と言う方が正確でしょう。

何故なら、私の傍には何時もお姉ちゃんが居るから。

お姉ちゃんと、お姉ちゃんの友人である名雪さん、あゆさん、そして祐一さんが居るから。

私からその輪に飛び込んでいるから。

ですから、私には深く親しい友人が少ないのです。

居ない、と言い切っても過言ではないほどに。

あゆさんとは比較的親しくしていますが、

でも二人だけでは何を如何すれば良いのか解らなくなります。

私はお姉ちゃんが居なければ、お姉ちゃんの庇護が無ければ、

何もする事が出来なくなるのです。

それほどまでに私は、とても弱い存在なのです。

夕焼けに染まる部室。

私は一人、イーゼルに掲げられたカンバスの前に佇んでいます。

そのカンバスは今だ画布が張り替えたままの純白の姿。

絵の具も箱の中で綺麗に整列していれば、

パレットも一切の汚れの無い実に綺麗な状態です。

それは一人で部室に来るようになってから、

気分を変えようと画布を張り替えてからずっと、変わらない。

とてもではないが絵を描くことなんて、

気分を変える事なんて出来はしなかった。

私はただじっとカンバスを見詰めながら、時の過ぎるままに身を任せる。

そうする事しか、出来ないから。

私に出来る事なんて、それぐらいしかないのだから。

物語を夢見、何ら行動をする事の出来に無い私には、

ただ、時が過ぎるのを待つ事しか出来ないのだから……。



『皆さん、下校の時刻になりました。

校内に残っている生徒の皆さんは、速やかに準備を終え帰宅してください』

下校を促す放送が校舎内に響き渡る。

結局今日も、何もする事無く一日を終えてしまった。

私は準備をしたまま一度も手を伸ばす事の無かった筆や絵の具を、

酷く緩慢な動作で仕舞っていきます。

きっと明日も同じ様に、こうして使われることの無い筆や絵の具を準備し、

そして仕舞っている事でしょう。

明日も、明後日も、その先もずっと。

お姉ちゃんが戻ってくる時まで。

そして、祐一さんが、戻ってくる時まで。

今まで通りの生活に戻る、その時まで。

だからきっと、私はこれから先も、ずっと同じ事を繰り返すのでしょう。

一人、この部屋で。

「嫌だな、そんなの……」

ポツリと、言葉が口を付いて出る。

瞳から零れる、一滴の涙と共に。

祐一さん……。

一体、何があったのですか?

貴方に、そして、私達に。

祐一さん……。

もう、会えないのですか?

私に話しかけては、私をからかっては、私に微笑んではくれないのですか?

祐一さん……。

如何して私は、何もする事が出来ないのですか?

私には夢を見る事しか出来ないのですか?


祐一さん……

如何して

祐一さん……

如何すれば

祐一さん……

貴方は

祐一さん……

私は


胸に渦巻くは想いと欲望。

胸に込上げるは怒りと悲しみ。

そして、胸を焦すは思慕と憧憬。

沈む。

深い深い、闇の底に。

沈む。

暗い暗い、闇の底に。

沈む。

深く暗い、闇の底に。

私の、心が。

「祐一に会いたい?」

不意に囁かれる、言葉。

私はゆっくりと声のした方向に視線を向ける。

不思議と、驚きは無かった。

それがまるで、当然の事の様に思えて。

「祐一に、会いたい?」

もう一度、確かめるように囁かれる、言葉。

私はゆっくりと、その言葉に頷く。

「貴女に、お願いがあるの。

それはきっと、貴女にしか解らない事。

そしてきっと、貴女にしか出来ない事。

祐一を、助けて欲しい」

その瞳は、いつか見た冷たい瞳。

全てを拒絶し、

全てを否定し、

全てに無関心な、

とても冷たい、瞳。

でも、その奥底では救いを求めるような、瞳。

その人の言葉が、私の中で木霊する。

貴女にしか、私にしか解らない事。

貴女にしか、私にしか出来ない事。

祐一さんを、助ける事。

そう、私が夢見る、物語の主人公のように。

「貴女が、貴女だけが、

祐一を理解し、救う事が出来る」

囁かれるは、甘美なる言葉。

私を誘う、魅惑の言霊。

そして私は、絡み取られる。

抗う事の出来ない、欲望の縫糸に。

幾重に、幾重に。

己が紡ぐその糸に。

決して逃げ出す事が、出来ない様に。

破滅という名の夢を、紡ぎ上げる……。



つづく

あとがき

……暗いですな。

まあ、そんなお話ですから仕方の無い事なのでしょうが。

さて、如何やら舞台の方は全て整ったようです。

と言う事は、

そろそろ主役のお出ましと言う事でしょうか。