誰が悪い訳でもない。誰が正しい訳でもない。白でも黒でもないなら、それは灰色だろうか。



5月10日 水瀬秋子の日記より
 祐一さんが倒れて慌ただしい日が続いたけど、漸く一段落したのでここ数日付けていなかった日記をまた付けられます。でも、果たして一段落と言っていいのかしら? 祐一さんはいなくなってしまって、まだ帰ってこない。どうしてもあの人がいなくなった時の事を思い出してしまうからかしら。祐一さんがいないと、名雪達ばかりでなく私も、寂しい。

「典型的な精神分裂症ですね。解りやすく言えば、二重人格という奴です。」
「二重人格…。」
「ただ、本人にとって別の人格を別人として認識してるというのは、実に珍しい症例ですね。人格が残っているという事は、祐一君の精神自体はそのまま残っている可能性が高いですから、治療がうまくいけば完全に治癒する可能性もあります。」
「…治療の方法は?」
「カウンセリングを受けさせたり、家族が本人を支えて地道にやるしかないのが現状でしょうね。心の病気に、特効薬なんてものはありませんから。」

5月24日 水瀬秋子の日記より
 術後の経過が順調だったので、祐一さんが退院する事になりました。
 家に戻ってきても、祐一さんには何も変化がない。寂しい。祐一さんが戻ってくる為に何かしたい。あの人と違って祐一さんは戻ってこれる。二度も失いたくないから、何かできる事はないか、お医者様にも聞いてみよう。

 記憶のない少年―――いや、少女というのが正しいのだろうか? ともかく、祐一の水瀬家での生活が再び始まる事になった。まず名前が付けられた。ただの『祐』。祐の生活が始まった。
 住人達からは、いつも見守られているようでどこか悲しい、そんな眼で見られているような感覚があった。記憶のない自分に対する優しさなのだろうと、最初は気にする事もなかった。定期的に病院にも行った。術後の経過は順調らしいので外科の方には行かなくなったが、精神科の女医と二人きりで行われるカウンセリングのみは続けられた。

「本人…祐ちゃんでしたっけ? まずは本人に祐一君が同一人物である事を認識させて祐一君を表に出さなければ。これは時間が掛かりますけど、根気強いカウンセリングで何とかなるでしょう。問題はその後ですね。彼は自分の状態を無意識に理解しているのかも知れませんが、男性としての生殖能力が失われている事には気付いていないでしょう。彼が自身の正確な状態を理解した時、事実の重さに耐え切れず今度こそ彼の精神が崩壊してしまう可能性もあります。」
「どうすれば、いいのでしょうか…?」
「男性としての自身に絶望しない事、自分が男性である事を再認識させてあげれば、或いは。何か自信とか、そういうものを持たせてあげられれば…今は、カウンセリングを続けるしかありません。」

5月30日 水瀬秋子の日記より
 カウンセリングの成果か、祐一さんが少しだけ出てきてくれました。祐ちゃんと同じ声のはずなのに、久し振りに祐一さんの声を聞いたら嬉しくて少し涙が出た。もっと聞きたい。   聞きたかったのに。

「祐…ちゃん?」
「今は、祐一ですよ。」
「! っ、祐一さん…!」
「色々と迷惑を掛けてるみたいで、すいません。…祐の事、頼みます。」
「…祐一さん? 祐一さんッ!」

「ふたつの人格が記憶を共有していると考えていいのかも知れませんね。それはそうと一度でも出てきたなら、カウンセリングの成果は出ていると思っていいでしょう。ただ祐一君も祐ちゃんも、どっちも今の彼の心には欠かせないバランスなんです。どちらかが失われれば、心は崩れ落ちる。」
「………。」
「それと、私のカウンセリングでは彼は出てこないみたいです。信頼するご家族の前でしか、出てこないのかも知れません。特にあなたは祐一君の母親代わりですし、できるだけ側にいるように…ああ、あと彼の状態については、もう少し落ち着いてから伝えてください。今は微妙な時期ですから。」
「…はい。」

6月 5日 水瀬秋子の日記より
 祐一さんが一日に一度ぐらい出てきて、私と少し話をしてくれるようになりました。だけど何故か名雪達の前には出てきてくれません。その事を祐一さんに尋ようとしたけど、またすぐに祐ちゃんに代わってしまいました。     不謹慎だけど、私の前だけに出てきてくれる事が、少し嬉しい。

「そろそろ、彼には自分の身に起きている事を知って貰う必要があるのかも知れません。」
「この間は、まだ早いと仰られていたのでは。」
「それについて失念していた事があります。祐一君が入院してからもう一月が経ちます。彼の、彼女の女性器が正常に活動しているのなら、周期的にはそろそろ生理、月経が訪れる頃です。」
「……!」
「男性としての生殖能力の件はともかく、月経のような表面的な事は隠せません。その点だけは打ち明けるしかないでしょう。…本来なら、医者である私から伝えるべきなのでしょうが、これを彼に伝えられるのは、あなただけです。お願いできますか?」
「……はい。」

6月 6日 水瀬秋子の日記より
 朝から祐ちゃんの気分が悪いようだと思ったら、月のものが始まっていたので生理用品を渡してあげました。使い方がよく解らないみたいで、パッケージの説明を何度か読んでいたようです。今日は祐一さんは出てきてくれませんでした。           寂しくて涙が出る。今も。

「祐一さんが、出てきてくれないんです。」
「男性にとって、生理が訪れるなんてのはかなり衝撃的な事なのでしょうね。今は、見守るしかないと思います。」

6月11日 水瀬秋子の日記より
 祐ちゃんの生理が終わって、五日ぶりに祐一さんが出てきてくれました。             あんな事になるなんて思わなかった。でも、後悔はしてない。決してしない。

 祐が二階の自分の部屋の窓際に立っていた時、秋子が気付けたのはほんの僅かな違和感から。それが、祐でなく祐一である事に。
「祐一さん…ですよね?」
「…ええ。」
「よかった。出てきてくれないから心配していました。」
「………。」
「祐一さん…実は、祐一の身体は「解ってますよ。半分、女なんでしょう?」
「…そうです。」
「それだけじゃ、ないんでしょう?」
「……ええ…女性として、子供を作る事もできるそうです。」
「隠さなくていいです。」
「え?」
「男としては、子供を作れないのは解ってます。」
「! どうして、それを…!?」
「日記、ですよ。昨日、祐が読みました。尤も、祐には内容が殆ど解らなかったみたいですけど。」
「………。」
「すいません、秋子さん。」
「…いえ。」
「それと…ありがとうございました。」

祐一さんがお礼を言って窓枠に手を掛けた時、私の中で何かが弾けた気がします。あの人を思い出したから。あの人の最後を。
気付いたら後ろから祐一さんを抱き締めていました。

「秋、子さん…?」
「お礼なんて言わないでください。もう、もう嫌なんです…ありがとうなんて言われて勝手に別れられるのは…!」
「…俺は…。」
「…祐一さん。日記を読んだなら、私の気持ちも知ってますね? …祐一さんが居てくれないと駄目なんです。勝手な言い分なのは自分でも判ってます。だけど言わせてください。私の為に生きて…生きてください、祐一さん…!」
「秋子さん…。」
「好きです…愛してます、祐一さん。あなたを愛しています。だから…だから、私の前から居なくならないで…。」

泣きながら自分の甥に愛を告白するなんて。

「俺達は、甥と叔母なんですよ。」
「関係、ありません。」
「仮に他人であったとしても、俺は…こんな身体です。」
「それも関係ありません。私は祐一さん自身に、あなたに側に居て欲しいんです。私が事故で倒れた時、名雪よりも祐一さんが側に居てくれた時が嬉しかったんです。」
「俺は、男ですらないんですよ。」
「祐一さんは私にとって一番の男性です。…証明してもいいです。」
「証、明?」

思えば、私はこの時どこかおかしかったのかも知れません。

「祐一さん、私を………私を、抱いてください。」
「え? な……! ちょ、秋子さ…うわっ。」
「あっ…。」

甥に愛を告白したばかりでなく、自分から身体を求めるなんて。
祐一さんが慌てて揉みあっている内に、ベッドに仰向けに転がった祐一さんに私が馬乗りになってしまいました。
私は止まりません。止まろうとすら考えられなかった。

「秋子さん…。」
「ごめんなさい、祐一さん…。今は私を受け入れてください。」

祐一さんの唇に自分のそれを重ねて、それから後は断片的にしか覚えていません。祐一さんの身体の感触、髪の匂い、心地よい温もり、灼けるような激しい熱さ、私を受け入れてくれた祐一さんの全てが幸せだと感じられました。   終わってから私は眠ってしまい、目が覚めた時に祐一さんが居なくて、押し潰されそうな不安を覚えました。服も着ずにベッドを飛び出して、キッチンで祐一さんを見つけた時は、そのまま抱きついてまた泣いてしまって。

「大丈夫ですよ、秋子さん。うまく言えないけど…俺、生きますから。」

そう言って、祐一さんはあれから初めて笑ってくれました。

許される事ではないのかも知れないけど、私は後悔しません。祐一さんがまた笑ってくれたから。私と一緒に居てくれるから。



6月12日 水瀬秋子の日記より
 昨日あった事が何をしていても思い出せてしまい、名雪達に心配を掛けてしまいました。            今日も祐一さんに私を受け入れて貰えて、幸せです。

「秋子さん…こういう事は…その、やっぱり良くないんじゃないんでしょうか。」
「何故、そう思われますか?」
「え…?」
「近親間での性行為が禁忌とされるのは、それで生まれた子供に障害が多いからだというのが理由のひとつなのでしょう。では、子供を作らなければ?」
「確かに…俺は子供を作れません…でも、他人に公表できるような関係じゃないでしょう? 親父やお袋、名雪達に知られたら…。」
「私は、そうなっても構いません。」
「秋子さん…!」
「祐一さんと一緒にいると幸せなんです。祐一さんを感じられると、もっと幸せになれるんです。例え誰かから非難されても、私は祐一さんと共にありたい…もう、離れたくないんです。」
「………。」
「やっぱりお嫌ですか? こんなおばさん相手では。それとも、私はよくありませんか?」
「そんな事は! 秋子さんは…気持ち良かっ……ですけど…。」
「…嬉しい。」
「ちょっ、秋子さんッ。」
「………………本当にお嫌なら…やめます。」
「…………………………………………………………………嫌じゃ、ないです。」

6月15日 水瀬秋子の日記より
 名雪達が寝静まった後、祐一さんの部屋に行くようになりました。ここ数日、そのまま朝まで一緒に寝てしまって、日記をその日の内に付けられなかったりしました。これからはその前に付ける事にします。        祐一さんが素敵すぎるせいだと思うのは、勝手でしょうか。

「祐一君がカウンセリングをしている最中に、初めて出てきてくれました。劇的な進歩です…と、いうか少々劇的過ぎます。ここ数日の内に御家庭の方で何かあったんですか?」
「………。」

6月23日 水瀬秋子の日記より
 祐一さんが名雪達とも話をしに出てきてくれるようになり、一日の半分ぐらいは祐一さんが居てくれます。一番長く居てくれるのが夜というのは、名雪に悪いのかも知れません。          本当に悪いのは、あの子の気持ちを知っていながらそれを無視した私自身。        それでも後悔しない。そう決めた。

6月26日 水瀬秋子の日記より
 初めて祐一さんの方から私を求めてくれました。平日の昼下がり、私達以外は誰も居ないリビングで名雪が帰ってくるまで求め合いました。もう少しで名雪に知られてしまったかも知れません。             そうなっても構わないけれど。

7月 3日 水瀬秋子の日記より
 病気療養の名目で長期欠席している祐一さんの復学について話し合いました。もう1学期も終わりだから、夏休み明けの2学期には学校に行けるようにしたい、という事で話がまとまりました。             本当はもっと二人だけで居たいのに。

7月 7日 水瀬秋子の日記より
 祐一さんに生理が訪れました。流石に今日は出てきてくれないようで、寂しいです。         心も身体も。

7月12日 水瀬秋子の日記より
 生理が明けて祐一さんが出てきてくれました。祐一さんがいない五日間はとても長かったように思えます。           久々だったせいか、何度も求めてしまって、少し自己嫌悪。

7月19日 水瀬秋子の日記より
 明日から夏休みが始まります。名雪達は勿論、他のお友達も頻繁に祐一さんのお見舞いに来るようになるでしょう。                名雪達が出かけたのを見計らって、朝から祐一さんを求めてしまって、自分がどんどん淫らになるようで、少し恐い。

7月25日 水瀬秋子の日記より
 毎日のように誰かが祐一さんのお見舞いにやってきます。それにしても訪ねてくるのは女の子ばかりで、ちょっとだけ妬ましい気持ちになってしまいました。           それでも毎夜祐一さんの部屋に行くのは、ひょっとしたら欺瞞なのでしょうか。

8月 4日 水瀬秋子の日記より
 何だか朝からだるい気がします。微熱もあり、祐一さん達に強く勧められ今日一日、寝て過ごしました。祐一さんが看病してくれるのは嬉しいのですが、リンゴの皮を剥こうとして手を切ったりして、結局自分で剥いてしまいました。祐一さんには私を剥いて貰ったので問題ありません。           気のせいでしょうか。この感覚は前にも感じたような。

8月11日 水瀬秋子の日記より
 祐一さんに生理が訪れています。だけど、私自身の生理はもう一週間も遅れています。               まさか。

8月12日 水瀬秋子の日記より
 薬局で買ってきた妊娠検査薬を使ってみました。陽性の反応が出た時、私はただその結果を見つめたまま何も考えられず、暫く固まっていたのだと思います。明日、病院でちゃんとした検査を受けるつもりです。

8月13日 水瀬秋子の日記より
 産婦人科のお医者様から妊娠している事を断定されました。2ヶ月だそうです。相手は        祐一さん以外に考えられません。              私の答えはもう決まっています。

「祐一君が男性として子供を作れないのは、精子を作るのに重要な役割を果たすセルトリ細胞が欠如しているのが原因です。彼の精液には精子は含まれていません。仮に精子が生まれたとしても、極めて生命力が弱く授精する前に死んでしまうでしょう。事実上、彼が女性を妊娠させるのは不可能です。現代医学でも治療の方法は存在しません。」
「でも…。」
「ただ、小数点以下の0の数が天文学的に多いという数値の可能性なら、あります。起きたとしたら、それこそ奇跡と言わざるを得ないような確率のね。未成熟な細胞から辛うじて生まれた精子が、卵子まで辿り着くという奇跡。…そうとでも考えなければ、その妊娠の説明はつきませんよ。…さて、どうします? 貴方と祐一君の関係がどうであろうと、選べる道は一本だけです。」
「………。」
「継続か中絶か、ふたつにひとつです。」

8月14日 水瀬秋子の日記より
 祐一さんに妊娠の事を話しました。私がどうしたいかも一緒に。 暫く一人になりたいと仰られたので、私は祐一さんの部屋の前で待ちました。祐一さんが私を呼んだのは、30分ほど待ってからの事でした。

「本当に、産む気なんですか?」
「はい。私はそのつもりです。」
「…何故です。何故俺の子供なんかを…!」
「違いますよ、祐一さん。祐一さんの子供だから、です。お医者様の話でも、この子以外に祐一さんが男性として残せる子供はいないだろうと…そんな理由もあります。そして何より私自身が、貴方の子供を産みたいから。」
「………! それにしたって、俺の子供として産むなんて…。」
「私達は甥と叔母の関係ですから、この子を誰か別の人の子供として産む方が、確かに波風は立たないでしょう。祐一さん、私は何時か貴方に言いましたよね。『証明してもいい』って。…だから、私は誰から何を言われようとも、この子を祐一さんの子供として、産みます。」
「秋子、さん…。」
「…そんな顔しないでください、祐一さん。これから、色々な事があると思います。辛い事も、少なくないでしょう。でも私は幸せです。祐一さんと、この子がいるから。」

 これから私達に何が起こっても、この子は関係なく在るのでしょう。白にも黒にもなっていない灰色のままで。
 祐一さんとの『はいいろのかたち』を抱えたまま、私はどこまで歩いていけるのでしょうか。

(終わりでなく始まり)